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  • #働き方 #微生物 #ウイルス #生化学 #感染予防

【特集:住環境の衛生研究】

微生物・ウイルスの研究は「日用品」から考えてこそ意味がある

安全と安心のために研究者が大切にしていること

  • 2020/10/21  Text by Rikejo編集部

Rikejo

目に見えなくても、私たちは微生物やウイルスに囲まれて、毎日を過ごしている──。
新型コロナウイルス感染症の拡大という異常事態が起きて、誰もが、そんな情報に日々触れるようになりました。「こんなウイルスさえなければ、何も気にせず生活できるのに」。そんなふうに感じている方もいるかもしれません。
たしかに、この新しくて恐ろしいウイルスも、日常生活での大きなリスクのひとつになりました。でも、私たちの生活環境は、もともと「何も気にせず」過ごしてよかったわけではありません。その怖さや性質はさまざまだけれども、私たちの身の回りには、多くの微生物やウイルスが潜んでいるのです。
そんな、日常生活に影響を与える微生物やウイルスと、上手に、安全に付き合うことを研究してきたのが、花王で住環境の衛生について研究を重ねてきた人々。私たちが普段、何気なく使っている衛生に関する製品の基礎を作る、科学的な研究にたずさわる彼らは、いったいどんな道を歩んできた人たちなのでしょう?
そのお話からは、私たちの生活と直接つながる、日用品の「ものづくり」と関わるからこその、楽しさや使命感が見えてきました。

膨大なデータ収集も「ひとりで協力者を募るところから」

最初にお話をうかがったのは、同社の安全性科学研究所主任研究員の矢野剛久さん。矢野さんが136の家庭の中の微生物を調査して発見した、生活と微生物の深すぎる関係については、次の記事もご参照ください。
花王の顔「掃除と除菌「ホットスポット」はどこ? 136家庭の微生物調査でわかったこと」

矢野剛久(やの・たけひさ)さん。花王には2006年に入社。家庭内の微生物汚れの解析や微生物の制御技術開発、界面活性剤や防腐剤などの微生物への影響の研究などを行っている。

─ 矢野さんが所属されている安全性科学研究所では、どういった研究をされているんでしょうか。

矢野: 世界の人と商品と環境の安全を守って、安心を提供する、というのが研究所のミッションです。なかでも、私たちのグループは微生物制御技術を中心に取り組んでいます。

具体的に、会社の中ではたしている、もっとも大きな役割は、「商品を守る」こと。花王から世に出るすべての製品は、工場で作られてから、消費者のみなさんに使い切っていただくまでの間、腐らないよう、こちらの研究所で何らかの形でアセスメントがとられています。それは食品だけではなくて、化粧品だったり、その他の日用品についても同様です。腐ることで臭いを発したり、容器が変形したり、いろいろな不都合が出てくるわけですね。

こうしたアセスメントを行なっていく基礎として、住環境全般への理解、俯瞰的な微生物への理解というものが、どうしても欠かせないと思っています。

─ 矢野さんは、136軒もの家庭を訪問されて、台所のキッチン排水口やスポンジ、冷蔵庫、トイレの床などといった、いかにも雑菌のいそうな水回りだけでなく、ダイニングの床や食事用テーブル、ベビーチェアのバーなど、ありとあらゆる場所の微生物を採取されたそうですね。そうして、「冷蔵庫の野菜室に多い細菌に特徴あり」といった、さまざまな分析結果を割り出されています。この調査は、やはり大規模なチームを組むところから始められたんですか?

矢野: いや、もちろん家庭訪問などはたくさんの方々のご協力の賜物ですが、最初は研究の立場から、ひとりで調査を設計し、集まったサンプルの分析もしていました。

─ え、ひとり!?

矢野: はい。こういう研究をしたいということは私が言い出したことで、最初は上司が実現のきっかけを作ってくれたんですが、とにかくひとりで始めたんですね。

しかし、菌叢(多数の菌が入り混じっている全体の様子)は季節によって変化をするという報告もありますので、季節変化の影響を受けないように、なるべく短期間にサンプルを収集する必要があったりしまして、多数のご家庭の、それこそ数千というサンプルを分析するのは、非常に大変でした。

この調査は、実際には2年かけて、2回の調査を行ってサンプルを集めているんですけれども、最初の1回で調査できたのは46軒でした。そうして、最初の研究で見えてきた成果をまとめて、いろんな部署の人に、自分でアポイントメントをとって、会いにいって宣伝したんです。

  • 私たちが普段、何気なく利用している家庭内のさまざまな場所に、多様な細菌が存在している(photo by iStock)。

─ 興味を持ってくれる仲間をつくろうということですね。

矢野: ええ、それで2回目の調査ではさらにいろんな方に支えていただきました。なかには、マーケティングのような、まったく関係のない仕事をしている人まで、微生物の実験の訓練を受けて、一緒に実験してくれたりもしたんです。大変なご苦労をおかけして、今でも心から感謝しています。

花王の研究所のカルチャーといいますか、雰囲気として、ひとりひとりの研究者が「やりたい」ということを、筋道立てて説明できれば、問答無用でNOとは言われないという環境があります。これは、興味のあるところに突っ込んでいきたいという、私の性格にもあっていると思っていまして、さらに部署を横断して、比較的のびのびと協力関係を築いていけるようなところもあって、とてもありがたいですね。

微生物は「猫みたい」

─ そもそも、矢野さんはどうして花王への入社を考えられたんでしょう。学生時代から、微生物には興味を持っていらっしゃったんですか。

矢野: そうですね。私が大学で学んだのは、農学の分野です。さかのぼると、本当に子どものころから「夢は科学者」だと言っていたんですが、中でも、ずっと机に向かっているような理論的なものよりは、対象に触れて様子をみるといったことに興味がありました。

同時に、ずっと生き物が好きだったんですが、高校生くらいの時期から環境問題に関心を持ちました。それで、生物を対象にしつつ、環境問題の勉強をしてみたいと考えて、大学に入学したんですね。その中で、非常に大きな課題となるのは生活排水、あるいはその汚染を引き起こす日用品ではないかと思ったんです。私たちが、生活者の立場から、そうしたものを変えていくことで、環境の改善にはいちばん効果があるのではないかと。

それで、実際に大学での研究を始めてみると、微生物がこの問題に大きな影響を持っていた。そして、いつも想像以上の動きをしてくれて、楽しませてくれたんですね。微生物というのは、汚れであったり、臭いであったりという形で、その姿を「チラ見せ」してきます。自由奔放でわがままだけれども、ときどき愛らしい姿を見せる。だから、印象としては、猫に近いと思うんです。

ただ、その一方で、微生物は場合によっては人の命を危険にさらしたり、ヨーグルトのように美味しいものになったりと、猫とはちがって、さまざまに「化ける」。そういう魅力にひきつけられて、微生物の勉強をするようになったんですね。

─ そうした微生物の研究を、環境問題に活かしていくためには、花王のような日用品を製造している会社で研究をしていきたいと考えられたんですね。

矢野: そうですね。これは大学との大きな違いとも言えるかもしれませんが、やはりここでは、日常生活に密着した「ものづくり」に関われるというのが、非常に魅力です。自分の関わった製品が店頭に並んでいるのを見るのは、やはりとてもうれしいことですし、親にちょっと自慢したりしても、ちゃんと理解して、一緒によろこんでくれたりする。そういう経験は、やはり日用品の「ものづくり」に関わる研究者ならではだと思います。

また、花王は、非常に豊富な製品カテゴリーを扱っているところも魅力だと思います。私自身も、家庭の衛生だけを研究していたわけではなくて、化粧品事業に関わる防腐の研究などにも取り組んでいたりします。すると、ひとつの研究で思いついたアイデアが、まったく違う事業に活かせたりする。そういう、アイデアをすぐに活かせる土壌というか、フィールドがちゃんと用意されているのは、とてもいいところだと感じています。

最後になりますけれども、そのように、たくさんの分野があるからこそだと思うんですが、いろんな解析技術に関する研究課題が「散らかっている」というか、すぐに取りかかれる状況にあるんですね。したがって、自分が興味を持った分野で「遊べる」。いろいろトライできるというところが、あれこれ挑戦したいタイプの人間にとっては、魅力的な環境なのではないかなという風に思っています。

入社していきなり振られた「ウイルス研究」

次にお話をうかがったのは、安全性科学研究所でウイルスに関する研究を行ったのち、Kao USA, Inc.に派遣され、リサーチ・マイクロバイオロジストとして、アメリカで製品の防腐性評価などの研究にも従事してきた、横畑綾治さん。

横畑さんたちが作製した特殊な「殻だけのウイルス」を使った研究で、家庭の中でのウイルスの伝播経路が解明されてきたといいます。
花王の顔「殻だけウイルス」で見えてきた家庭内の伝播経路

横畑綾治(よこはた・りょうじ)さん。安全性科学研究所でノロウイルスの制御研究に携わったのち、Kao USA Inc.に派遣され、アメリカでの製品の防腐性評価などの研究を行っている。

─ ウイルスを使った研究というと、映画の中などでは防護服を着た、特殊な訓練を受けた研究者たちが、おそるおそる作業しているような、そんなイメージがあります。横畑さんも、もともとウイルス研究の訓練を受けたスペシャリストだったんですか?

横畑: いいえ、そんなことはありません。最初に私たちがウイルスについての研究を始めたときには、まだ周囲にはウイルスの専門家はいませんでしたね。私自身も、大学では農学部で、研究で微生物は扱っていましたけれども、薬学部とか医学部系の研究者の方のように、ウイルスの扱いを学ぶ機会は、学生時代はありませんでした。

─ ええっ、それでどうやってウイルスの研究を始めることができたんでしょう!?

横畑: 当時、国立感染症研究所(感染研)に所属されていた片山和彦先生のところにお願いをして、ご指導いただいたんです。片山先生は、現在は北里大学に移られていて、最近では新型コロナウイルスの細胞への感染を抑制するVHH抗体の研究プロジェクトでも花王がご一緒させていただいている方です。

そうして、当時は3名くらいのチームだったと思いますが、感染研で指示を仰ぎながら研究を進めていき、社内での知見は次第に蓄えていったというところです。そのうちに仲間が増えていった。ウイルスの研究自体、花王の歴史の中では、非常に新しい取り組みなんですね。いまでこそ、ウイルス研究をバックグラウンドに持つ仲間も十数名まで増えてきていますが、最初は本当に手探りでした。

Kao USAの研究所の写真

  • Kao USAの研究所。日本とは働く人たちの仕事との向き合い方が大きくちがったという。

─ それにしても、まったく新しいことを企業に就職してから始めて学ぶことになったんですね。横畑さんご自身は、花王に入った当初からウイルスにご興味があられたんですか?

横畑: いえ、私は大学時代、「クオラムセンシング」(quorum sensing、「集団感知」ともいう。ある種の微生物が周囲にいる微生物の密度を感知して、生み出す化学物質の量を調節する性質のこと)という、微生物同士のある種のコミュニケーションについて研究していたんです。そのコミュニケーションを阻害することで、たとえば微生物が毒素を作らないようにするとか、そうした研究をしていました。

花王を志望したのは、住環境の中の微生物を制御して、消費者の暮らしをよりよいものにできるんじゃないかということだったんですね。

─ ところが、いきなりウイルスが出てきたわけですね。

横畑: ええ、私が入社したのは2012年ですが、花王では2004年からノロウイルスについての研究が始まっていて、私は入社してすぐ、ウイルスの研究に携わることになりました。

ただ、この新型コロナウイルスの流行を受けて、あらためて明らかになったように、花王がこの分野に意欲的に取り組みはじめたことは、正しかったんじゃないかと思っています。微生物に関する研究は、すでに花王で広く行われてきたわけですが、そこで培った衛生技術というのは、かなりウイルス対策に応用できるところがあります。

それに、花王の製品というのは、生活の中で、ウイルスの感染源になってしまうような部分にアプローチできるものも多いのですね。たとえば、手・指の衛生製品であったり、キッチンや手すりといった、環境表面の清掃に関する製品も持ってますので、そういうものにウイルス不活性化効果のようなものを付与できれば、効果的に感染拡大を阻止できると考えています。

─ 新入社員としての最初に渡された、ある種、無茶振り的な課題が、しかし数年経ってみれば、社会にとっても非常に重要な研究になってきたわけですね。

横畑: そうですね。学生のころとの違いとして、やはり社会に出て研究をするという場面では、目的意識を非常に強く持たないといけないということがあると思います。今やっていることが、将来的に、社会だったり、お客さまに、どれだけ意味があることかをしっかりと考えながら取り組む。それがモチベーションになりますよね。

一方で、これは花王という会社の魅力だろうと思うんですが、非常に研究員の自主性を重んじているところがある。情熱があれば、とことん研究させてくれるのと同時に、非常に多くの、異分野の専門家がいるというところが特徴だと思います。自分ひとりではどうしようもない研究の行き詰まりに出会うこともあるんですが、他分野の人の意見を聞いて解決することも、よくあるんです。

アメリカの研究所で感じた「仕事との向き合い方」の違い

─ ところで、横畑さんはその後、Kao USAに赴任されて、アメリカの研究所でもお仕事をされていますね。同じ花王の海外研究所ですが、仕事仲間は日本から派遣された方が多いんでしょうか?

横畑: いや、周囲はほとんどアメリカ人で、日本からという人は他にはあまりいなかったですね。

─ 日本の研究所とは、カルチャーの違いを感じる部分もありましたか?

横畑: そうですね。そもそもアメリカには「キャリアアップ」という概念が強くあって、ひとつの職場で働いていくことで貢献するという、日本的な働き方とは根本のイメージが大きく違う部分はあると思います。

日本と雰囲気が異なるのは、アメリカでは仕事に対して人がアサインされるんですよね。職務に適合した人材を外部から呼び込んできて、成果が出ないとか能力が不十分という評価になると、極端な場合は、別の人に変えられてしまうわけです。なので、ひとりひとりが、自分に任された仕事に対する強いプロ意識を持っているという印象は持ちました。

日本と比べて、どちらがいいかということではないんですが、国民性の違いのようなものは肌で感じましたし、刺激になりましたね。もともと所属していた日本側の研究所としても、まずはそういう刺激も受けてきなさいということで送り出してくれたと思っていますので、いい経験だったと思います。

お話をうかがってみると、横畑さんは最初は畑違いの分野を学ぶために、外部の感染研で勉強し、最近はまた、カルチャーの異なるアメリカで刺激を受けてきたりと、企業に就職した研究者といっても、本当にいろいろなところに出かけて、新しい知識や文化を吸収されてこられたんですね。

同時に、そうして人の輪が広がることで、新型コロナウイルス対策の研究で共同発表をされるような、新しい人脈も生まれていった。そう思うと、今後はその輪が世界に広がっていくのかも、と楽しみになります。


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