イノベーションのDNA
【特集:土壌】
「理系」というと、大学で自然科学の勉強をする人をイメージするのが一般的。でも、じゃあ、そのあとは? 理系でも文系でも、多くの人が社会に出て、それぞれの分野で活躍していくことになります。けれども、せっかく大学・大学院で専門的な研究の世界に触れるのに、就職したあと、その経験が活かせるの……?
そんな疑問を抱えたRikejoの学生記者が、「化学の力」で世界の農業を変えるかもしれない研究開発を行っている花王のリケジョに、ずばり聞きました!
今回、お話を聞いたのは、花王マテリアルサイエンス研究所の望月裕美さん(写真左から3人目)。望月さんは、チームを率いる室長の林利夫さん(写真左)、田ノ上明宏(同左から2番目)さんたちとともに、まだ謎の多い「低縮合リグニン」という物質を利用した「土壌改良剤」の研究をしているといいます。
─ いきなりですが、花王が「土壌改良剤」や農業にかかわる研究をされているというイメージが、ぜんぜんなかったんですけれども……。
望月: そうですよね(笑)。私も、入社して「アグロ分野(農業分野)の研究だから」と言われるまで、そんなことをやっている印象はまったく持っていなかったです。
─ 大学では、どんな研究をされていたんですか?
望月: 高分子化学の研究をしていて、規則的に並んだ固体中のモノマー(たくさん集まると高分子を形成するような分子の基本セット)を液体中のモノマーと反応させる方法などをテーマにしていました。
─ どうして花王を志望されたんですか?
望月: コスメなどのビューティー分野に興味があったのが大きいんですが、化学を活かして、いろんなことに取り組んでいる会社だなと思ったからです。高分子化学の研究室の先輩たちの進路を見ていると、多いのは、やはりBtoB(素材などビジネス向け商品を扱う業界)なんですけど、花王はBtoC(一般消費者向け)でも有名ですし、幅の広い仕事ができるかなと思って。
─ でも、農業分野というのは……。
望月: 想像していませんでしたね(笑)。
田ノ上: 実は、私たちのチームには、大学で農業分野を学んできた人間は、ほとんどいないんですよ。有機化学とか化学系の出身が多い。
林: ただ、花王にはBtoBの分野では、日本の農業生産を高めるために、アジュバントという農薬の効果を高める製剤を長年、開発・販売してきた歴史があるんです。
<農業に界面化学!? 花王が取り組むアグロ分野のすごい技術力については、こちらの記事もチェック!→なぜ花王が? 農業分野で強みを発揮する理由>
はじめて触れる農業の世界。望月さんは、先輩たちの話を聞いたり、論文を読んだりするだけでなく、農業の世界とはどんなものなのかを「体験」して学んだといいます。
望月: 林に連れられて、北海道の農家の方のところにお邪魔したんですが、そこで5日間ずつ、2回ほど、近くに泊まって農業の体験をさせていただいたんです。
林: その方とは、私がかつてジャガイモの生産で利用する製剤の研究をしていたときに出会ったんですが、非常に刺激的なことをおっしゃる方なんです。「1日に、どれくらい未来のことを考えている?」とか。
─ 未来のこと、ですか?
林: 「1日に、10分でいい、真剣に未来のことを考えることは、どんなに忙しくてもできるはずだ」と。それをやっているか、というんですね。気さくな方なんですけど、ふと深いことをおっしゃる。それがすごく印象に残っていまして、たまたま望月と一緒に近くを10年ぶりに訪れたので、ふと思い立って久しぶりにご挨拶にうかがったんです。そこで、新しい土壌改良剤の研究をしているんです、とお話ししたら、「じゃあ、うちで実験してみるか。花王なら信用してるから、いつでも性能検証のために使っていいぞ」と言ってくださって。
─ そしたら、本当に個人的なつながりがきっかけで、望月さんの農業体験や土壌改良剤の実験に協力してくださったんですね! 知らない分野で、新しい人に出会ってと、大学の研究室にこもって実験に打ち込む日々とは、まったくちがう環境ですね。
望月: そうですね。でも私自身は、いろいろなところに行ったり、初めてお会いする人と話したりするのも、もともと嫌いではないタイプなので、楽しんで取り組めました。
林: 望月にとっては、入社して最初の所属が我々のチームなので、あんまり実感がないかもしれないんですが、これは花王の中では、ちょっと珍しいことでもあるんです。というのは、洗浄剤やコスメのように、長い歴史があり、多くの人が関わっているメジャーな分野では、基盤の研究者は、科学的な意味での基礎研究に集中し、商品開発は開発系の部門が担当するといった役割分担の組織体制が、かなりしっかりできているんですね。
でも、アグロ分野、とくに土壌改良剤のように、まだ花王としても新しい分野では、私たちのような研究者は、「これは最終的にどんなふうに使われるだろうか」「これが商品になったときには、本当に農家の人にとって使い勝手がいいだろうか」という最終製品のイメージまで、自分たちで考えて最終製品まで仕上げていきます。だから、基礎的な研究を行う研究者であっても、多くの人に出会って、現場の方が必要としているものは何かに触れていく必要があると思っています。
─ 望月さんが花王の研究室にいるときは、プロジェクトの中で、どんな部分を担当されているんですか?
望月: 私たちの土壌改良剤のキーは、「低縮合リグニン」という物質ですが、これを土壌に混ぜると、団粒ができるんです。この土のお団子が、水を撒いても簡単には壊れない状態を維持することで、土壌がフカフカの、農作物の生育によい環境を保つことができると考えているんですが、じゃあ、この団粒の中では、その低縮合リグニンは「どこにいるのか」ということを中心に研究しているんですね。
─ 「どこにいるのか」ですか?
望月: はい。調べてみると、低縮合リグニンは、団粒の中に均質に混ざっているわけではなくって、どうもそのお団子の外側の部分に集まっているようなんです。そのリグニンが、水を土に取り込ませつつも、適度に弾くので、団粒を水に入れても、なかなか崩れて壊れたりはしないんですね。団粒の上に水滴を落とすと、弾いている様子が観察できるんです。
田ノ上: 私たちの扱っている低縮合リグニンは、他のリグニンを利用した改良剤と比較しても、少ない量で大きく土壌の性質を変えることができそうだということが分かっているんです。比較するものによっては、ひと桁多い量の土壌を団粒化させることもできる。それはなぜなのかを解明するためには、どこに低縮合リグニンが分布しているのかは非常に重要なポイントなんですが、それを望月が担当してくれています。
望月: なので、研究室で団粒の上に水滴を落としたりしている姿と、生産者の方のところにお邪魔して土に触らせてもらったりしている姿と、その両方が私の「研究している」姿だということになりますね(笑)。
大学や大学院で研究してきたこととは、まったくちがう分野に飛び込むことになった望月さん。そんな話を聞いて、インタビュアーのリケジョ代表は最後に、こんな疑問をぶつけてみました。
─ 私も大学院に進んだあとには、就職するんじゃないかと思っているんです。でも、社会に出たら、自分がやりたくてやってきたこととはちがう仕事を与えられる可能性もあるんだよなぁ、とちょっと不安に思ったりもしています。望月さんは、専門とはちがう分野のミッションを割り振られたわけですけど、どうやって取り組んでこられたんですか?
望月: うーん、たしかに大学で研究していた内容とは全然ちがうし、想像していたビューティー分野の仕事でもないけれど、分野はちがっても、学んできた科学の「プロセス」は一緒なんですよね。仮説を立てて、実験をして、それを検証して……。
私の場合は、団粒が水を弾いているという事実を見て、低縮合リグニンの疎水性を示す部分が、団粒の外側に集まっているんじゃないかという仮説を立てたところから、それを確かめていくプロセスが、まさにそういう部分でした。
私は、もともと中学・高校の化学で実験をして手を動かすと、いろいろなことが起こるというのが面白くって、化学を志望したんですけど、その楽しさはいまでもまったく変わりません。だから、いまこのプロジェクトで出会った低縮合リグニンという対象を、まずしっかりと研究して、それを形にしていきたいと思っていますし、すごくやりがいを感じています。
林: 望月より、もっと先輩の私からも一言。私が花王に入った頃だと思いますが、やっぱり先輩に言われた言葉があって、それは「どんな内容でもいいから、まず最初の研究をしっかりやりとげなさい」と。それがきっと、将来どんな分野を任されていくことになっても、自分の力や自信になっていくと思うんですね。
─ ありがとうございます!
望月さんたちの研究は、現在、この土壌改良剤を実際の農業の現場で多くの人に使ってもらえるように仕上げていく段階にあるそうです。科学する人々の、汗と努力の結晶が、日本や世界の農業を変える日も、近づいている。そんな明るい未来を胸に、リケジョ代表はインタビューを終えました。
化学を基礎に、幅広い分野で活躍する花王の研究者たち。大学・大学院とは異なる農業という分野に飛び込み、多くの出会いを経て、新しい研究に邁進している望月さんの姿に、インタビュアーのリケジョ代表も大きな刺激を受けたようです。テーマは変わっても、科学に向き合う姿勢は変わらない。「理系」とは、実は理科系の学部に進学したり、在籍したりすることではなく、そういう「科学する方法」を身につけた人のことなのかもしれません。
powered by Rikejo