イノベーションのDNA
【特集:数理科学】
化粧品から生活用品、そして世界を驚かせた水滴まで。
「化粧品開発の仕事をするには、どんな勉強をすればいいですか?」
これはRikejoのQ&Aコーナーに中高生のみなさんから寄せられる、定番の質問です。人気の高い化粧品や生活用品の研究開発で、化学や生物の知識が重要になることは、誰もがイメージする通りでしょう。
ところが、花王の研究開発部門には「数理解析グループ」が存在し、理論物理や数理科学の発想を駆使して、化粧品や生活用品のものづくりを支えているといいます。いったい、そこではどんな研究が行われているのでしょう?
「理論物理の美しさに感動した」学生時代
今回、取材に協力してくれたのは、花王株式会社研究開発部門シニアパートナーで、数理解析グループの元グループリーダー・恩田智彦さん。大学では工学部物理工学科に在籍していたそうです。
「博士論文のテーマは『半導体レーザー材料の熱力学物性』でした。固体(半導体)も光(レーザー)も勉強したいと思って半導体レーザーの研究室を選択したんです」
ランダウ・リフシッツの教科書『場の古典論』を読んで、理論物理学の美しさに感動したというバリバリの「数・物系」だった恩田さん。それがなぜ、化粧品や生活用品で日本を代表する企業である花王に入社したのでしょう?
「ある研究会に参加したとき、花王の文理科学研究所(当時)というところでは、数理科学を精力的に研究しようとしていると聞いたのが最初のきっかけだったかもしれません。
入社面談のとき、自分の研究を紹介したあとで、『専門以外の研究にも興味がありますか?』とたずねられ、『何をやっても面白いですから』と答えたんです。博士課程修了者には、自分の専門へのこだわりがとても強い人が多いですから、意外だったようです。その一言のおかげもあってか、無事、採用されて1992年に入社しました」(恩田さん)
けれども、数理科学が生活用品の開発で、どんなふうに役立つのでしょう?
その代表例が、大ヒット商品となったホットアイマスク「めぐりズム」の開発時のエピソードだといいます。
蒸気で目元を温める「めぐりズム」の基本構造は、使い捨てカイロなどと同じ。シートに混ぜ込まれた鉄粉が、水分や空気中の酸素と発熱反応を起こすときの反応熱を利用しています。
このとき、紙のシートに混ぜ込まれた鉄粉の分布が均一になっていないと、発熱に偏りが生じて、心地よくムラのない温かさを実現できません。
「協力してくれた製紙会社の職人さんたちは、普段は均一な厚さの紙を作るという仕事をしている人たちです。パルプと水を混ぜた原料を、抄紙装置(紙すきのための装置)内で偏りなく流し広げるために、『堰』や『邪魔板』というパーツの配置を、経験に基づいてうまく調整しているんですね。
ところが、この商品では紙の中に鉄粉を混ぜようなんていう、非常識なことをお願いしたわけです。すると鉄の重みの影響もあって、なかなか均一に鉄粉を広げることができなかったんですね」(恩田さん)
流体シミュレーションと品質工学の力で問題解決!
実はこのとき、四苦八苦する現場の担当チームの中に、数理解析グループのメンバーの友人が。「どうにかならないだろうか」と相談を受けた数理解析グループの中島武士さんは、流体シミュレーションでこの問題に立ち向かったといいます。
「流体現象は、有名なナビエ・ストークスの方程式など、現象をよく表現する方程式が知られていて、市販の解析ソフトでも高い精度で解析を行うことができます。中島さんたちは、堰や邪魔板の高さや配置に応じて、原料の流れや鉄粉の分布がどのようになるかの流体解析を行いました(図1)。
ただ、それだけだと、『ある条件のとき、鉄粉がどう分布するか』までしかわからず、最適な高さや配置がどれかであるかまで判定することはできません。そこで活用したのが、『品質工学』の考え方です」(恩田さん)
「品質工学」とは、あまり聞き慣れない言葉ですが、新技術や新製品の開発を効率的に行う方法を考えるための工学的なメソッドのこと。
その中には、「逐一実験すると何百通りも試さなければならない実験と同じ結論に、(条件があえば)たった数回の実験で到達できる」という「直交表」という考え方があるのです。
【直交表や品質工学について詳しく知りたい方は、こちらの記事や参考文献をチェック!→<あの大ヒット商品の裏に『数理科学』あり!>】
たとえば、L18直交表と呼ばれる直交表にあてはめると、逐一実験するなら4374通りの実験をしなければならない場面でも、たった18回の実験で最適条件を割り出せる可能性があるといいます。
「こうした計算の結果、最適と思われる堰や邪魔板の高さや配置を割り出し(図2)、製紙会社に持っていきました。そして現場で1、2回の調整をしただけで、きれいに鉄粉を広げることができたのです」(恩田さん)
数理科学の力が、商品開発をいっきに加速させた瞬間でした!
こうした流体シミュレーションは、他にもノズルから吐出された泡(キャラクター泡)の形状設計、サニタリー商品の中に含まれる吸収体中の液体の浸透解析、撹拌槽中での原料混合の効率化などにも活躍しているといいます。
恩田さんの後輩にあたる、数理解析グループ・現グループリーダーの塩見浩之さんは、こう話してくれました。
「花王の研究開発部門では、いろいろな研究分野のグループが、ひとつの広いフロアで一緒に仕事をしていることが多いんです。たとえば東京・墨田の研究所では、化粧品開発のグループと数理解析グループが同じフロアにいますし、栃木の研究所では、『めぐリズム』やサニタリー製品の開発グループと数理解析グループが一緒にいます。
それこそ、歩いて数歩の距離のところで、異なる分野の人々が一緒に研究しているので、ふらりと現れて、『ちょっとこれはどう考えたらいいだろう』と相談することから、本格的な研究開発が始まることもあります。
それに、私の目から見ると、複雑でわかりにくい現象に出会ったとき、『恩田さんのところに相談しにいってごらん』と研究員に勧めている上司も、各分野にいるように思います」
化学や生物学の研究者が中心の花王の中でも、数理科学が現象をより深く解き明かす力が信頼を集めているようです。こうした研究分野の垣根を超えた交流が、私たちの生活に役立つ商品の開発を支えているんですね。
「世界で評価された」水滴!
汚れを落とす洗浄剤を作るなら、人間の皮膚や衣類などと汚れとの界面にどう働きかけるかを考える必要がありますよね。肌になじむメイク、泡で出てくるハンドソープ、すぐに液体を吸収するおむつ……、花王が扱う商品を考えたとき、「界面」という言葉はいろいろな場面に出てきます。
数理科学で商品開発を支える数理解析グループの恩田さんの周りでも、「界面」の話題はよく現れるそうですが、そんな中、ちょっと珍しい界面を扱ったことがあったといいます。
「27年ほど前、『フラクタル』や『カオス』という数学の概念を物理・化学の世界に応用することが流行りだしていました。そんな中で、『フラクタル構造の表面は水に濡れるか、濡れないか』という話題が社内で持ち上がったんです」(恩田さん)
「フラクタル」とは、図形のどの一部を切り取っても、その「一部」が全体と相似な形になっているような図形のこと(図3)。
自然界でもいろいろな場所に見られ、人間の身体では血管の分岐や腸の内壁、サンゴの枝分かれ、一部のシダの葉の広がりなどがフラクタル構造に近いものとして指摘されています。
もし、フラクタル構造の表面が作れたら、それはどんな性質を示すのだろう──? 恩田さんは興味をひかれ、まだなんの役に立つかはわからない中で、独自の研究をはじめました。
不思議な「フラクタル」の世界
フラクタルは、とてもデコボコの、不思議な形をしているように見えますよね。
でも、フラクタルの不思議は、その見た目だけではありません。その「次元」にも、奇妙な性質があるのです。
たとえば、私たちは普段、「線は1次元、面は2次元、立体は3次元」と考えています。こうした直感的にもわかりやすい「次元」は、みんな整数です。
ところが、たとえば下図のような操作の結果、作ることができる「コッホ曲線」と呼ばれるフラクタル図形の次元は、整数ではなく1.262…という不思議な値をとるのです。
フラクタル表面は水に濡れるの?濡れないの?
「フラクタル表面はどんな濡れ方をするだろうか」。そう考え始めた恩田さんは、そもそも「固体表面が濡れる」とは、どういうことかと考えを進めました。
固体の表面に水滴のような液滴をのせたとき、それが弾かれる(撥水的になる)のか、濡れ広がる(親水的になる)のかを決めるのは、実は次の図のような、「固体と液体」「固体と周囲の気体」「液体と周囲の気体」の3種類の「界面張力」のバランスであることが知られています。そのバランスを表すのが、「ヤングの式」と呼ばれる式です。
界面張力は、界面上で、ゴム膜のように働く張力(引っ張る力)であると同時に、界面に蓄えられたエネルギーでもあります。これを具体的に計算するときは、「単位面積当たりの界面自由エネルギー」を計算します。つまり、界面の面積あたりのエネルギーを計算するのです。
では、もしこの界面が、実はフラクタル構造だったとしたら、どうなるでしょう?
見た目上、平らなL×Lの正方形の範囲について考えているつもりでも、顕微鏡で拡大して見るとそれがフラクタル構造だったとしたら、微細な凸凹のため表面積は何倍にも増えているはずです。
フラクタル表面でのヤングの式を考えた恩田さんは、「固体と液体」「固体と気体」の2つの界面張力に、フラクタルの形をした表面が与える効果を加えて、式を整理しなおしました。すると、次の図のように式が変形できることがわかったのです。
典型的なフラクタル表面のデータを当てはめて、かりにL=100μm、l=1μm、D=2.5と仮定すると、表面積の比(L/l)D-2は10にもなります。
つまり、フラクタル表面では、平らな表面の場合の10倍、接触角θのコサインが正方向に大きくなるか、負の方向に大きくなることになります。それはつまり、固体表面に対する液体のぬれ性(好き嫌い)が、「ぐーっと大きくなるか、ぐーっと小さくなるか、いずれかである」ことを表しています(図7)。
予想が現実になった「結婚式の日」
こうした予想を立てた恩田さん。花王の基礎科学研究所(当時)の所長だった辻井薫さんはその可能性に期待し、当時入社2年目だった四分一敬さんに実験を担当してもらいました。四分一さんは、紙のにじみ防止剤の原料でもあり、融液からの固化時にフラクタル構造を作るアルキルケテンダイマー(AKD)という物質を使って実験を繰り返し、水滴の様子を撮影。
ある日曜日、恩田さんが訪れた同僚の結婚式会場で、四分一さんは撮れたての実験の写真を恩田さんに見せてくれたのです。
「記帳の列に並んでいるときに、その写真を見せてもらって、名前を書き終えるやいなや写真に集中してしまい、ご祝儀袋を渡すのを忘れてしまったんです(笑)」(恩田さん)
ほんの小さな水滴の写真でしたが、たしかに接触角150°を超える超撥水を示していたのです(図8)。 数理科学で予想したことが、現実で確かめられた瞬間でした。さらなる研究によって、花王のグループは世界一の接触角をほこる「超撥水表面」を作ることに成功(図9)。その成果は、液晶や界面の研究で有名なフランスのノーベル物理学賞受賞者、ピエール=ジル・ドゥジェンヌが執筆した教科書『表面張力の物理学─しずく、あわ、みずたま、さざなみの世界─』(吉岡書店)でも紹介され、世界で使われた教科書に「花王」という言葉が載ることになったそうです。
恩田さんは、最後にこう語ってくれました。
「コンピュータの性能があがり、シミュレーションの精度や速度も上がる中、数理科学が企業の研究開発で占める重要度や活躍する場面は、ますます増えてくるだろうと感じています。
ただ、私自身はコンピュータよりも、紙と鉛筆で勝負するタイプの研究者。問題を解析する力はコンピュータには敵いませんけれども、まだまだコンピュータには、現象の裏側にある本質を見抜き、解き明かすことはできません。
基礎(基盤研究)から応用(商品開発)、コンピュータから紙と鉛筆まで、いろんなタイプの研究者がいる。それがいいんじゃないでしょうか」
私たちの生活を支える日用品や化粧品の向こう側に、思いもかけない形でサイエンスを追究する人たちがいる。そんなことを感じた今回の取材でした。
思い込みやイメージにとらわれず、いろいろな角度から「科学する仕事」の楽しさに触れていきたいですね!
powered by Rikejo