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花王の
よきモノづくりの系譜

古今東西の清浄文化史と
花王のよきモノづくりの変遷をご紹介します。

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はじまりは、たった一個の石けん

創業者・長瀬富郎と
初代「花王石鹸」

花王の歴史は明治時代、創業者・長瀬富郎(ながせ・とみろう)が洋小間物店を創業するところから始まります。
長瀬富郎は1863年、岐阜県中津川市(当時の美濃国恵那郡)で酒造を営む「寿々田屋」の次男として生まれました。12歳から丁稚奉公に出て、22歳で上京し、和洋小間物問屋に入店します。ここで商売を覚えて、24歳で石けんや歯みがき粉など日用品も扱う「長瀬商店」を創業しました。1887年のことでした。
 

創業者・⻑瀬富郎の写真

創業者・⻑瀬富郎 

石けんといえば高価で高級な舶来品か、安価でも質のよくない国産品しかなかった時代です。良質の国産石けんをつくる!そんな長瀬の強い思いから「花王石鹸」は生まれました。    

1890年発売当時、一個一個が蝋の紙で包まれ桐の箱に収められた花王石鹸の写真

良質の石けんをめざして長瀬富郎は、石けんづくりの職人・村田亀太郎と薬剤師・瀬戸末吉とともに試行錯誤を重ねて「花王石鹸」を完成させました。発売は1890年。1個1個を蝋(ろう)の紙で包み、丁寧な説明書きと品質証明書をつけて桐の箱に収めた、中身も包装も高級な純国産石けんが誕生しました。
ちなみに「花王」の名は、当時の化粧石けんが「顔洗い」と呼ばれていたことに由来し、「顔を洗える高品質な石けん」であることを印象づけました。


受け継がれるポリシー

創業者・長瀬富郎の思いや経営方針は、現在の花王にもしっかりと息づいています。

花王の伝統となる販売戦略センス

化粧品「二八水」の広告と写真

長瀬は「花王石鹸」のほかに化粧水「二八水(にはちすい)」、歯みがき粉「寿考散(じゅこうさん)」を発売しました。「花王石鹸」は高級品であったため、より安価な日用品も同時に販売することで経営を安定させたのです。
人々の暮らしに必要なものを見分け、商品化し、さらに広告する術についても長瀬には非凡なものがありました。

社員に遺した言葉

創業者・⻑瀬富郎 の遺言状の展示写真

長瀬は、結核のため48歳の若さで亡くなりました。社員の行動指針として遺言状に書かれた言葉は「人は幸運ならざれば非常の立身は至難と知るべし、運はすなわち天祐なり、天祐は常に道を正して待つべし」。
誠実に勤勉に仕事に取り組み、正道を歩むこと。

これは花王の現在に至るまで変わらぬ理念です。


石けんと榎本武揚

榎本武揚(えのもと・たけあき)をご存知ですか? 江戸生まれの武士の子で、幕末期にオランダ留学を経験した幕臣です。そんなエリートが戊申戦争に破れて投獄されたことが、日本に石けんの製法を広めるきっかけになりました。

投獄された武士仲間に石けんの技術を伝える榎本武揚のイメージイラスト

※イラストはイメージです。

戊辰戦争(1868〜1869年)で旧幕府軍を率いたリーダーとして投獄された榎本武揚。獄中で『オランダ油脂工業書(石けん・ろうそくなどの製法)』を訳し、同じく投獄された武士仲間に石けんの技術を伝えました。彼らの出所後、全国に石けん工場がつくられたと言われています。


石けんの販売価格と物価

1890年に発売された「花王石鹸」は3個入り35銭の高級品でした。そば1杯が1銭の時代です。1杯500円で換算すると、石けん1個(約12銭)あたり約6000円になります。それでも、1個30〜50銭の舶来品よりは買いやすく、化粧品として考えれば手の届く価格だったようです。

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