イノベーションストーリーズ
直径は1㎛(1ミクロン:1ミリの1000分の1)以下。その1本の糸が肌の未来へ
──今回クローズアップするのは、超極細繊維「Fine Fiber(ファインファイバー)」。いったいどんな可能性を秘めた糸なのか。
イノベーティブな技術を生み出してきた背景に根付く花王の「技術者魂」のシリーズ連載も5回目。
今回、クローズアップするのは栃木県にある加工・プロセス開発研究所。花王の製品につながる基盤技術の研究をしている部署だ。
研究に携わる東城武彦と甘利奈緒美の2人に、ファインファイバー開発の物語を聞いた。
マスクや紙おむつ、衣類の芯地、CDの簡易ケースなど、私たちの暮らしのあらゆる場面に使われている不織布。
医療や建築、土木や工業用、自動車用など産業界にも欠かせない重要なマテリアルだ。
だが、われわれの暮らしの中の不織布は、あまりに身近すぎて特段気に留めることもない存在になっている。
実は今、この不織布をヒントとした技術で新しいイノベーションを起こそうとしている。発信源は花王。
わずか1㎛(1ミクロン:1000分の1ミリ)以下という極細の繊維「ファインファイバー」を使った新しい技術を開発、未知の世界を切り拓こうとしているのだ。
「不織布はある程度成熟した分野で、技術的な革新もあまりない状態でした。
十数年前、『その不織布の新たな世界を拓く』という命題を与えられたのです」
ファインファイバーの開発に携わる東城武彦が、こう述懐する。
「不織布は、繊維を熱で接着したり、絡み合わせたりして作る布のことです。その特徴はいくつもありますが、まず柔軟性があること。
そして、比較的簡単に安価に作れるので、生産性が高く、できた不織布を幅広く活用できることです。
そのため不織布には、それを使った良い商品ができると一気に世の中に広まる、という面白さがあります」
長く基盤技術の研究に携わり、12年ほど前からファインファイバーの開発を担当する東城は、
不織布をヒントとした新技術の研究を手がける醍醐味をこう語る。
入社10年になる甘利奈緒美は「不織布というのは、ほとんどスカスカ状態の多孔質なのです。
そのすきまを利用して、いろいろな機能を載せやすい。そこにも面白さがあります」と説明する。
つまり、多様な可能性を秘めている繊維──それが不織布なのだ。
花王の不織布開発歴史は1970年代から始まった。それまで不織布自体はあったものの、
サニタリー製品の表面材といった、直接肌に触れる部分に使えるようなものは少なかった。
「肌へのやさしさ」と「吸収機能」を兼ね備える、使う人にとってよりよい製品を目指し、不織布開発は進んでいく。
生理に関するさまざまな悩みに向けて開発された生理用ナプキン「ロリエ」、
夜間のおむつ替えが必要なくなり、母子に安眠をもたらした紙おむつの「メリーズ」。
「ロリエ」は高分子吸収体を搭載して薄型化をはかり、逆戻りを低減させてヒット商品に。
「メリーズ」は不織布と高吸水性ポリマー樹脂で作る通気性シートで、機能性を向上させた。
やがて1994年、大ヒット商品「クイックルワイパー」が生まれる。これは愛用している方も多いだろう。
不織布がホコリやごみをからめ取るフロア用掃除用具で、腰痛の方や妊娠中の方でも立ったままで簡単に掃除できる新しい方法を模索。
それまでの床掃除の負担を急激に軽くしてくれた画期的商品だ。
「カーペットのゴミは、カーペットで拭くと取れる。おむつのメリーズで床を拭くと、ホコリが取れる。
つまり繊維がゴミやホコリをからめ取ることに気づいた者がいて、その発見から不織布の構造や素材の分析を進めて、
製品化へと結びついたところが花王らしいと思います」(東城)
次に爆発的なヒットとなったのが「ビオレ毛穴すっきりパック」。
小鼻の皮脂の詰まりを取るシート状パックで、こちらも国内にとどまらずグローバルな大ヒット商品となる。
「これは不織布があったから実現した商品です」と東城が言う。
水になじまない層(パック剤のベタベタを解決)と水になじむ層(しっかりとパック剤を保持)を重ねた特殊な不織布。
しかも鼻からはがすときは剥離しないように強度を保つ。
「材質もさまざまありますし、太さ、絡ませ方などを変えることで、いくらでも用途が変わります。
例えばクイックルワイパーでも、不織布の組み合わせ方でゴミの取れ方が変わるので、今も改良が続いています。
その改良の方向性のひとつに、不織布の細さの追求がありました」(東城)
なるほど不織布というのはさまざまな組み合わせ方ができて、そこには無限の可能性がある。
進化する不織布から生まれた新商品が小さな課題を解決し、私たちの暮らしをさらに便利で快適にしてくれるのだ。
「不織布は細くなることで、物理特性、つまり柔らかさや変形しやすさといった性能が桁違いに変わります。
さらに細い不織布を組み合わせれば、クイックルワイパーの機能性をもっと上げることができるのではないか。
そんな不織布技術をベースとした研究を深めていった結果、生まれたのがファインファイバーです」(東城)
ファインファイバーは1㎛以下の細い高分子ポリマーでできた、一本の糸状の繊維だ。
その細さはにわかに実感できないが、普通の繊維が20㎛から30㎛、レンズの汚れがきれいに取れるメガネ拭きは、5㎛という細い繊維でできている。
東城によると、10㎛の繊維が100分の1以下の細さになると、柔らかさはなんと1億倍になるという。
わずか2g、1円玉2枚分のファインファイバーを伸ばすと、数千kmもの長さになる。
しかもたった1本の繊維が、そこまで長い糸のようになるのだ。
さらに「毛管力」といって、繊維が液体を引きこむ力は100倍にもなる。
実は不織布を細くする原理は、昔から世界中で研究され、研究者の間では知られていた。
電気の力を利用すれば、帯電しているもの同士が反発して、永遠に細くなっていくのだという(エレクトロスピニング法)。
しかし、コストがかかり過ぎるため、一部の医療用を除き、実用化にはどこも及び腰だった。
「花王では日用品も扱っているので、できるだけ安価に安定的に供給できるものでないと、
社内でも提案できません。研究を深めていく中で、極細の繊維をシート状にする方法を検討したのです」
「あるとき、東城さんがそのシートをピンセットでつまんで肌の上に置いて馴染ませてみたら、
まるで日焼けした皮膚がはがれるかのようにシートがペロンとむけたんです。それを見て、これは肌の用途にも使えるのではと直感して……」
ふたりが次々に語り出す。
だが、1㎛以下にも満たない超極細繊維でつくるシートは、その薄さと柔らかさゆえに扱いにくい。
指に絡みついてしまい、使い勝手が悪いのだ。
「これを万人が使えるものにするというのが、
長い間、越えられない壁で、シートをめぐってああでもない、こうでもないと3、4年も悩んでいました。
そんなある日、『いっそ、直接肌に吹き付けてしまったらどうだろう』とひらめいたのです」(甘利)
花王がイノベーションを生み出す力の源泉は、柔軟で、かつ、横断的な組織のつながりにある。
縦割りにならないよう、全社的にフレキシブルなつながりをつくるための機会が積極的に設けられているのだ。
例えば、研究開発部門で実施している、Iマトリックス会議。
2か月に1回、研究の各拠点持ち回りで開催する研究の技術に関する議論の場で、他の拠点からでも、
異なる分野の人でも、誰でも自由に自らが参加したいテーマの議論に参加することができる。
また、各研究分野ごとに開かれる年1回の発表会では、研究開発部門だけでなく、
事業やコーポレート、生産、販売部門など他の部門の人も自由に参加して意見を述べる。
最近は発表者もどんどん若返っていて、20代の研究者が発表することも珍しくないそうだ。
壁をつくらず、全社的な連携を強くして、自由闊達に意見を交換できる雰囲気が花王にはある。
「Iマトリックス会議に行くと、いろいろな分野の方と知り合えるので楽しいです。
そこで知り合った方たちとは、その後、気軽に仕事の相談ができます。
皆さん、聞きに行けば快く教えてくれますし、悩んでいることを伝えると、ご自分の仕事の手を止めて、一緒に考えてくれる人ばかりです。
そこから新しいアイデアがいくつも生まれます。私はこの風通しの良い雰囲気に助けられてきました」(甘利)
「花王には、いろいろな分野を得意とするさまざまな人がいます。商品開発でも、われわれのような基礎研究の分野でも。
さらにそこに横のつながりがあるのが大きいですね。
私も後輩から何か聞かれたら、仕事の手を止めて、真摯(しんし)に向き合うようにしていますよ」と東城もうなずいた。
甘利は自分の所属する研究所で年1回開かれるテーマ会議の場で、「ファインファイバーを貼るのではなく、直接吹き付けたい」と発案した。
そのためには、装置を小型化する必要がある。
さっそく機械や電気の社内の専門家たちが興味を示してくれて、装置を小型化する仲間となった。
東城が最初に試作したのは、懐中電灯を利用したもの。そこからさらにピストル型のもの、ドライヤーのような形など、機械の形も改良していった。
こうして電気の力でファインファイバーを直接吹き付けるダイレクトエレクトロスピニング法が完成した。
ある溶媒に溶けた液体を小型の機械に入れて吹き付ける。液体が一瞬で乾き、極細い1本の繊維が霧のように吹き出てくる。
「研究所の仲間たちの腕に実際に吹き付けてみると、全員が『おおっ!』とものすごく驚くんですよ。
この反応に勇気づけられ、これはいけると思いましたね」と東城が笑顔を見せた。
好きな場所に、好きな大きさで、特殊な極薄膜がつくれるのだから、
肌への用途のみならずファインファイバーの持つ可能性は無限に広がっていくのではないか。
「先ほども言ったように、ファインファイバーは毛管力が非常に高く、液体を保持する力がものすごくあります。
液体を加えて伸ばせば、端がどこかもわからないほど極薄になり、存在そのものが消えてしまう。
しかも、ファインファイバーは1本の連なった繊維でできているので、吸い込んでしまうなどの心配もありません。
ということは、例えば、この先、美容や医療の分野にもこの技術を応用できる可能性があるのではないかと……。
世界中の悩みを持つ人々の解決に役立てるのではないかと期待しています」(東城)
入社から10年間、基礎研究の道を歩んできた甘利は、
「自分が携わったものを、実際に生活者の皆さんが使っているところを見てみたいとずっと思っていました。
ファインファイバーの技術から商品が生まれ、それをたくさんの方に使っていただくことが夢です」と話す。
不織布は1920年代にドイツで生まれ、その後、日本でも生産が始まり、優れた品質のものが作られている。
だが最近は、不織布の分野で日本は決して世界の先頭にいるとはいえない状況だという。
「だから不織布技術の着想から生まれた新しい技術で日本の力を上げたい。
ファインファイバーはそれだけの可能性を秘めた、大きな力を持つ技術だと思っています」(東城)
次回はファインファイバー技術の事業化に向けた開発ストーリーをお届けします。
グローバル展開やファインファイバー技術が変革をもたらす可能性とは?
ご期待ください。
(制作:NewsPicks Brand Design 執筆:武田ちよこ 編集:奈良岡崇子 写真:矢野拓実 デザイン:九喜洋介)