イノベーションのDNA
【特集:認知症の早期発見-解析科学】
認知症を克服する――。
これは、超高齢化社会に生きる私たちが、最も叶えたい課題の一つだ。
何しろ2025年には、高齢者の5人に1人が認知症患者になり、その数は700万人を超えると予測されている。さらに、その予備軍といわれる軽度認知障害(MCI)の方を含めると1000万人を超えるとの推計もある。認知症は、誰にとっても身近に迫った問題だ。
そんな中、花王と東京都健康長寿医療センターとの共同研究から、認知機能を評価する指標として「血中のD-アミノ酸」が有用であることが明らかになった。鍵となったのは、花王が独自に開発した微量成分の分離分析技術だった。
化粧品や洗剤などの日用品を進化させてきた花王が、なぜ認知症研究に携わることになったのか。認知症早期発見につながるというこの新しい技術で、私たちの未来はどう変わるのか。研究担当者である花王 解析科学研究所の木村錬さんと辻村久さんに聞いた。
認知症になるのは不幸なのか?という議論がある。
あるとき、おばあさんがしょっちゅう「大事な化粧品を(家族に)盗まれた」と訴えるようになった。家族は「そんなことない、探せばあるよ」と、おばあさんの思い込みを正そうとするが、おばあさんは聞き入れようとせず家族への疑いを深めていく。そのうち、誰もおばあさんに構わなくなった……。認知症について正しい認識が広まっていなかった時代、こうした言動は「年のせいだから仕方ない」「もともとの性格だから…」と見過ごされることが多かった。
しかし、認知症の被害妄想には、老化への不安や孤独感、尊厳が傷つけられた悲しみなど様々な感情が隠れているとされている。訴えたい思いがあるのに、身近な人が理解してくれない。周囲の人と心を通わせることができなくなっていく不安で、どうしたらいいかわからない。こうした当事者のつらさがようやく理解されるようになってきたのは、つい最近のことだ。一方で、介護者や家族は責められているようでつらい。
花王の研究員の木村錬さんも、こうした課題を身近に感じてきた一人だ。
「私が大学2年生の頃でした。祖母が脳血管性の認知症と診断され、今後の将来や介護含め家族の大変さを、身を以て経験しました。認知症になると、普段は温厚であったのに怒りっぽくなったりもします。『認知症の本人は自覚がない』という考えは大きな間違いで、できないことが増えていくのは本人が最もつらいのです。一方で、介護疲れで困っている方がたくさんいらっしゃいます。症状について、理解が進むことを望みつつも、認知症を何とか早期に診断できるようになり、個々に最適な予防法を確立できれば、将来認知症になる人を一人でも多く救えるのではないかと考えていました」と語る。
認知症は、脳機能障害の一つで、いったん進行し始めると元の状態に戻すのが難しい。早期発見が進行を遅らせる鍵とされているが、認知症は本人が自覚しにくく、周囲も気付きにくい。症状が顕著になり、医療機関へ行くころには、すでにかなり進んでしまっているケースもある。
また、現状では診断そのものが難しいという課題も残されている。認知症で多いのは脳の疾患であるため、脳脊髄液を採取する検査、脳MRI・PETといった画像検査など、経済的にも身体的にも患者に負担の大きい検査が行われていた。こうした背景から、誰もが簡便な方法で認知症を早期にスクリーニングできる方法が求められていた。
ではなぜ、花王の解析科学研究所が、認知症研究に乗り出したのだろう。
「花王はこれまで、健康や衛生に関する領域で生体研究にも注力してきました。近年は、ESG(環境・社会を意識した企業の取り組みのこと)視点の事業戦略を本格化させたこともあり、社会貢献を視野に入れたモノづくりを目標にあげています。そうした中で、解析科学研究所としても、ESGを見据えた課題解決型、特に高齢化問題の研究ができないかと考えるようになってきたのです」
そして何より、木村さん自身が、祖母の認知症に向き合ってきたという背景があった。
「以前から、なんとか早期診断できる技術を生み出せないかと考えていました。理想は、誰もが簡便に受けられる健康診断のような形で診断してもらえること。そこで血液検査に着目しました」
研究には大変な苦労があったというが、突破口になったのは木村さんが、大学・大学院時代から研究していた「キラルメタボロミクス」という分析化学の専門知識だった。
キラル? 一般の私たちには聞きなれない言葉だが、「キラルというのは物質の立体構造が右手と左手のように鏡に映した関係にあることを意味する言葉です。日本語で「鏡像」異性体と言った方が分かりやすいかもしれません。キラルが私たちの感じる味や匂い、薬理効果等の生体機能を絶妙に変えるという点に興味を持ったのです」と木村さん。
今回、開発した技術はキラルアミノ酸を迅速・高感度に解析するというものだ。それが、認知症とどう関わるのだろうか?
「健康や美容の分野で、様々な種類の『アミノ酸』についてよく耳にすると思いますが、それらは全て『L体』(左手系)と呼ばれる分子構造をしています。ところが近年、L体を鏡に映した構造の『D体』(右手系)、『D-アミノ酸』も微量ながら私たちの身体に存在することがわかってきました。D-アミノ酸は、L体とは全く異なる生理機能を果たしていること、特に白内障、アルツハイマー型認知症、動脈硬化など、加齢性の疾病との関連が明らかになってきたのです」
D-アミノ酸は、健康、美容、病気の治療など幅広い領域で非常に注目が集まっている生体成分の一つなのだ。
「一般的に認知機能の低下には脳の萎縮が伴いますが、その前には『アミロイドβ』(※1)というものが凝集蓄積することがわかっています。D-アミノ酸については、その早期段階で脳の中で増えてきて、神経伝達の調整異常を起こすという興味深い報告があるのです。ただ、それらはいずれも脳の中で起きていること。ですから、健診などで簡単に身体から採取できる血中のD-アミノ酸で捉えることができれば、簡便かつ早期に認知症の兆候を捉えられるのではないか。そんな仮説から技術開発を進めていきました」と木村さんはいう。
分離分析といっても、一般の私たちにはどんなものかイメージしにくいと思う。ひと言で言えば、物質の成分を細かく分析する技術のことだ。微量成分の分析は、多くの企業で製品の原料となる物質の安全性や保存安定性(保存中に成分が分解などで別のものに変わらないこと)を確認する上で欠かせない。
また、花王は、化粧品や洗剤など私たちの皮膚や髪に触れるものを多く開発しているため、皮膚や毛髪でヒトの生体成分を分析することも行なってきた。代表的なものでいうと皮膚に存在する多種多様な「セラミド」の詳細分析だ。そこから、敏感肌等をいかに改善するかという研究視点の提案が生まれ、さらにセラミドケアをコンセプトとした洗浄剤や保湿剤の製品開発にまでつながっている。生体成分を分析すると、肌の荒れている人と荒れていない人では何がどう違うか、あるいはどんな製品を使ったら健常に近い肌の組成になるのかといったことも確認できるそうだ。製品開発から一歩進んで、実際の性能を評価することにも応用できるという。スキンケアのカウンセリングなどにも役立つ技術なのだ。
このように製品から始まって生体までを相手にして高度な分離分析技術を培ってきたのが辻村 久さんがいる解析科学研究所だった。そこに新人配属された木村さんの大学院時の研究がうまく絡み合った。
キラルの話題に戻ろう。木村さんが、研究を始めた当時はアミノ酸20種類のD体とL体を一斉にかつ素早く分析できる技術はまだなく、15時間はかかるものだった。それが、木村さんらが開発した新技術によって、わずか20分という短時間で血中キラルアミノ酸を解析できる基盤が完成した。これが、認知症の早期診断に適応できる技術の開発につながったのだった。
木村さんによれば、キラルアミノ酸の研究は日本がリードしており、様々な企業が積極的に取り組んでいる分野だ。
「その中で、独自技術が開発できたことはうれしかったです。今回の成果は、花王が蓄積してきた様々な知見や、難しい分析を可能にしてきた実績があり、誕生した技術だと思っています。その上で、認知症研究に携わることができているのは、分析化学者としてのもう一つの天命なのだとも思うのです。人々の日常生活や診断にとって最適なソリューション提案ができるところまで、さらに研究を進めていきたいですね」
昨年、木村さんらは東京都健康長寿医療センターの大規模コホート研究に参画して、認知機能との関連を探った。
「65歳以上の高齢女性対象に、健常者、MCIの疑いのある人、認知症の疑いのある人に分けて、全305人を対象に血中のキラルアミノ酸の一斉解析を実施し、認知機能との関連を調べました。その結果、MCIや認知症の疑いのある人たちの血液を健常者と比べると、プロリンとセリンという特定のアミノ酸種において、D体の比率がL体に比べて相対的に増えていることが分かったのです。しかもこの増大は、認知機能の低下につれて更に高くなっていくことも明らかになりました」
つまり、経済的にも身体的にも患者に負担の大きい脳の検査をしないでも、簡単に採取できる血中のD体とL体の比率を素早く調べることで、認知症の予備軍であるかどうか判断できる仕組みを見つけたのだ。
さらに進んで、現在は産学官民連携での取り組みもスタートしている。山口大学医学部、山口県と市、花王を含む複数企業が共同で、高齢者の健康づくりに関する研究を行うというものだ。研究では、65歳以上の高齢者に、運動指導やヨーグルトなどの食品摂取をしてもらい、どうしたら認知機能が改善するかといったところを明らかにしていく。
「花王では、D-アミノ酸が高齢者の認知機能を測るバイオマーカーになりうるかという妥当性検証を進めているところで、今まさに血液を分析している段階です。現時点では、どういう人が軽度認知障害(MCI)になり、そこから認知症へと進んでいく人はどういう人なのか、またどのような方法で対処すれば症状が軽い状態で維持できるのか、などわからないことだらけですが、そうしたことが明らかになれば、花王の得意とする日常生活での予防的ケアやソリューション、更にはメディカル領域へと広げていけると考えています」と木村さんはいう。
認知症は、何らかの脳の疾患によって認知機能が障害されている状態だが、まだ差し支えなく生活が送れる段階を「軽度認知障害(MCI)」という。そして、このMCIの時期であれば様々な介入により発症を遅らせる可能性があることが、医療関係者、製薬会社から行政にいたるまでの人々の間でクローズアップされている。
「興味深いことに、一度認知機能が衰えても、運動や睡眠等を良い状態にして一定期間を経た後に再度血液を分析するとD体の比率が下がって、認知機能が健常に戻っているという面白いデータも出てきております。つまり、認知症が表面化する前段階でリスクを知ることができれば、生活習慣の見直しや、適切な食事や運動・睡眠などを通して心豊かな生活を創造できる可能性もあると思っています。オールジャパンで、日本を変えていけるような認知症の診断の基盤を作っていけたら」と木村さんは期待を込める。
そして、いい技術は多くの人が活用できてこそ意味がある。木村さんが理想とするのも『いつでも、誰でも、どこでも、簡単に分析できるようになること』だという。
「病室や薬局、あるいは自宅で認知症のリスク診断を超簡易に行うことが出来れば、認知症の超早期発見も可能になるはずです。ヘルスケア&メディカル融合の未来をつくることが出来れば、世の中の仕組みを大きく変えられると思っています」
認知症の根本治療は未だ見つかっていないため、早期診断をする意義について疑問を持つ人もいるかもしれない。でも、リスクを知ることで、少なくとも症状が進行した時に備えて今後の対策を立てられる、家族が医師と相談する時間や将来の介護プランを立てる時間も生まれるなどメリットは大きい。
木村さんが「健診や検査の段階で認知症のリスクを知ることで、少しでも皆さんの脳の健康に対する気づきに貢献できたらいい」と話すように、脳の健康や認知症への理解が進んでいくことも大切だ。
高齢になれば、誰でも認知症になる可能性がある。だからこそ、正しく認識し、誰もがありのままでいていい社会を作っていきたいという、木村さんら花王の研究所の挑戦はこれからも続いていく。
木村さん・辻村さんらが取り組む、今回のご紹介した新技術についての詳しい原理や技術の内容については、ブルーバックスで公開。
『認知症の早期診断へ 血中アミノ酸分析の凄すぎる新技術「キラル」に挑んだ分析屋』
木村錬
右:木村 錬(きむら れん)花王株式会社 解析科学研究所 研究員。北海道大学では分析化学を専攻。2015年、花王に入社。入社以来、食品・生体微量成分解析に従事。「何が、どこに、どれだけあるか」を分析化学で徹底的に調べ上げ、新領域創造を目指す。近年ではキラルメタボロミクス(D-アミノ酸)による認知症研究に注力。
辻村久
左:辻村 久(つじむら ひさし)花王株式会社 解析科学研究所 上席主任研究員。グループリーダー。花王高等専修学校卒 1993年 花王に入社。クロマトグラフィーを主とする分離技術を用いた生体成分・微量成分解析に従事。これまでに界面活性剤やセラミド、皮脂などの網羅解析技術を確立してきた。
【用語解説】
※1:アミロイドβ
認知症(アルツハイマー病)の原因として考えられている、脳内の老廃タンパク質の一種。脳において凝集蓄積することで、発症するとされている「アミロイドβ仮説」も有名。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68402
「脳の神経細胞を壊していく老廃物「アミロイドβ」って何者?」(講談社ブルーバックス)
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