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  • #分析化学 #キラル分離 #モニタリング・診断 #認知症 #超高齢化社会

【特集:認知症の早期発見-解析科学】

認知症の早期診断へ 血中アミノ酸分析の凄すぎる新技術

「キラル」に挑んだ分析屋(前編)

  • 2021/10/06 Text by 堀川晃菜

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日本における要介護の最大要因、認知症。患者数は年々増加し、2030年には世界で8200万人に達すると予測されている(国際アルツハイマー病協会調べ)。一方、早期の軽度認知障害(MCI)の段階で適切な対処ができれば、将来的な発症を遅らせたり、抑えたりできることも最近の研究で報告されている。だが早期の兆候をつかむ手段は十分にない。

こうした現状を打破すべく、新規診断技術の開発に熱を注ぐ研究者がいる。花王 解析科学研究所の木村 錬さんだ。2020年、花王は認知機能の評価指標として血中のD-アミノ酸が有用であることを発表。「血液検査でアルツハイマー型認知症の早期診断が可能になるかもしれない」と多くの期待が寄せられている。

「認知機能の評価指標として血中D-アミノ酸が有用であることを発見
-血中のキラルアミノ酸を迅速・高感度に解析する技術を開発-」

トリプルで衝撃的なこの成果

このニュースには3つの驚きがある。1つは、認知症の早期診断マーカーとして有望視されているのが、長年ヒトの体内には存在しないと考えられてきた「D-アミノ酸」であることだ。認知症リスクの評価に有用であると分かったのは、D-セリン、D-プロリンという2種類のアミノ酸。特にD-プロリンは今回の研究で初めてスポットライトが当たった物質だ。

2つ目は、血中のD-アミノ酸をわずか20分という短時間で、一度に解析できる技術が確立されたこと。従来法では15時間かかることを踏まえると、著しい進歩だ。

そして3つ目の驚きはこの研究成果が、日用品メーカーの花王によって生み出されたことだ。

皆さんもご存知の通り、花王は洗剤などの日用品から化粧品、食品まで幅広い製品を手がけている。製品数とそこに使用される原料の数は莫大な数に及ぶ。製品の安全性を評価するには、ありとあらゆる成分の量を高精度に調べる必要がある。その役割を担ってきたのが、解析科学研究所だ。メーカーの製品開発が花形なら、普段は縁の下の力持ちとして裏方に徹する解析研究が今回の主役だ。

製品の安全性や安定性などを評価するための成分分析では、わずかな不純物も見逃すまいと10億分の1グラム(ナノグラム)のスケールで分析が行われている。さらに近年の分析技術の向上は著しく、従来は捉えられなかったものが、捉えられるようになってきている。D-アミノ酸もその一つだ。

謎のベールに包まれたD-アミノ酸

「人間の体内にはL-アミノ酸しかない」というのが生物学の長年の常識だった。先ほどから出てくるこの「D」や「L」は、鏡像異性体(キラル)を識別する記号で、3次元で自らの鏡像と重ね合わすことができない分子をキラル分子と言う。よく、右手と左手の関係に例えられるが、分子の構成要素はまったく同じなのに、立体構造だけが互いを鏡に映した関係になっている。

図1:ヒトのタンパク質を構成する20種類のL-アミノ酸とキラルな関係にあるD-アミノ酸

  • 図1:ヒトのタンパク質を構成する20種類のL-アミノ酸とキラルな関係にあるD-アミノ酸

セリン、プロリン、アラニンなど、ヒトのタンパク質を構成する20種類のアミノ酸は、すべてL体だ。そしてD-アミノ酸は、これまで微生物にしかないと言われてきた。しかし1992年にラットの大脳に高濃度のD-セリンが存在することが報告されて以来、哺乳類でD-セリンの生理機能についての研究が行われるようになり、近年の研究ではセリンに限らず、ヒトを含む哺乳類にもD-アミノ酸がごく微量存在し、さまざまな生体機能に関わっていることが明らかになってきている。

図2:近年注目を集めるD-アミノ酸

  • 図2:近年注目を集めるD-アミノ酸

花王 解析科学研究所の木村 錬さんは「病気との関係、美容や食味に関する機能など幅広い領域でいまD-アミノ酸が注目を集めています。しかし、その量はL-アミノ酸が99%に対し、1%以下とごくごく微量で、なおかつ同じ種類のアミノ酸をさらにD体とL体を識別して調べるのは、技術的にも非常にハードルが高いことです。そのため、まだ分かっていないことの方が多く、D-アミノ酸は“宝の山”と呼べる研究領域です」と話す。

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  • 【写真】プロフィール
    木村 錬(きむら れん)花王株式会社 解析科学研究所 研究員。北海道大学では分析化学を専攻。2015年、花王に入社。入社以来、食品・生体微量成分解析に従事。「何が、どこに、どれだけあるか」を分析化学で徹底的に調べ上げ、新領域創造を目指す。近年ではキラルメタボロミクス(D-アミノ酸)による認知症研究に注力。

なぜ花王で「認知症」研究なのか

木村研究員が“宝の山”と呼ぶほど、未開の地であるD-アミノ酸研究。花王の研究領域には、「衛生」「美」「健康」「環境」という4つの軸があるが、今回なぜ疾患、とりわけ認知症にフォーカスしたのか。

「まず、私たちは製品分析だけではなく、その製品を使用されるお客様のことをよく理解する必要があるという視点から、これまでも皮膚、毛髪など生体サンプルを解析してきました。そして新たな研究テーマを模索する中で、D-アミノ酸というキーワードについて文献調査を進めると、D-アミノ酸が認知症の発症メカニズムに関与していることを示唆する報告がありました」(木村氏)

認知症(アルツハイマー型)の発症メカニズムとしては、「脳内のゴミ」と呼ばれるアミロイドβタンパク質が分解・排出されずに、凝集・蓄積することで脳神経細胞死を招くと考えられている。さらに2015年の論文※では、脳で認知機能に関わる糖の代謝が低下することで、D-セリンが過剰となり、神経伝達の調節異常が引き起こされるという新たなメカニズムも提唱された。

図3:D-アミノ酸と認知症(脳内推定メカニズム)

  • 図3:D-アミノ酸と認知症(脳内推定メカニズム)

先ほど、D-セリンが最初にラットの脳内で発見されたことを紹介したが、D-セリンは最初から厄介者というわけではなく、もともと神経伝達に重要な役割を担っている。D-セリンの生合成には2つの酵素が関わっているが、糖代謝が低下すると、まず1つ目の酵素がNADHという分子を作らなくなる。すると、NADHによって制御されている2つ目の酵素はストッパーが外れた状態になり、過剰にD-セリンをつくってしまう。というのが現状、推定されているメカニズムだ(生体内でD-アミノ酸はL体の異性化によってつくられる)。

「認知症の進行には、D-アミノ酸の増加、アミロイドβの蓄積という変化が関与し、最終的には脳委縮、認知機能低下につながると考えられます。これらはいずれも脳内で起こる現象なので、直接捉えるのが難しい面もあります。健診等で当たり前に採取される血液から前兆を捉えることができれば、従来よりも負担の少ない形で、早期診断が可能になるのではないかと考えました」(木村氏)

早期診断・血液検査へのこだわり

現状、認知症の検査には、専門医による問診検査(MMSE)の他、画像検査(MRIやPET)、髄液検査がある。いずれも症状が表面化してから受診することになるため早期診断は難しい。さらに専門検査は経済的、身体的な負担もかかる。

「理想は、健康診断のように変調を自覚する前に検査できることだと考えています。現在、私たちが検討している診断技術は、マイクロオーダーという微量血液(指先採血)で行えるものです。採血なら早期の介入も可能で、身体的負担も少なく、数値で結果が示されると納得感も得やすいのではないかと考えています」(木村氏)

今回、木村研究員らが開発したD-アミノ酸の解析技術は、アミノ酸を網羅的に一斉解析し、アミノ酸を分子の種類ごとに分けることと、さらにL体とD体のキラル分離とを同時に達成した。

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高齢者の調査研究で有用性を示す

この基盤技術を実際に認知症の診断に応用できるのか、つまりD-アミノ酸を指標に認知機能の低下を捉えられるのか検証するため、生物科学研究所と東京都健康長寿医療センターの共同で2017~2020年度に行った「高齢者のフレイルと認知機能に関する疫学研究」に参画した。

調査対象は65歳以上の女性305名。問診(MMSE)により健常者・軽度認知障害(MCI)の疑い・認知症の疑いの3グループに分けた上で、全員の血中キラルアミノ酸を一斉解析し、認知機能との関連を調べた。その結果、MCIや認知症の疑いのある人たちではD-アミノ酸の比率が健常者より高かった。一方、L体に有意差はなかった。L体の100分の1以下しか存在しないD体の、さらにそのわずかな変化量が捉えられた。そこに差が見られたのは、D-セリンとD-プロリンの2つ。「キラルバランス」(セリンであれば全セリン中のD-セリンの割合)が認知機能の低下につれて増えていることが示された。

図4:認知機能とキラルアミノ酸解析

図4:認知機能とキラルアミノ酸解析

図4:認知機能とキラルアミノ酸解析

  • 図4:認知機能とキラルアミノ酸解析

脳と髄液での変動が報告されていたD-セリンについては血液でも早期変動することが確認された。一方、D-プロリンについては全くの“ダークホース”で、セリンに限らずアミノ酸を網羅的に解析したことで見つかった指標だ。今後、プロリンを起点に新たな角度から認知症の病態解明が進むことも期待される。

さらに、経年変化を追った解析からも興味深いことが見えてきた。保管されていた血液サンプルを用い、2008年から2018年にかけて10年間の変動が調べられた。この間、認知機能がほとんど低下していない人ではキラルバランスも変わっていなかった。しかしMCIや認知症の疑いが生じた人では、やはりD体の量が増えていた。ところが一度、認知機能が低下しても、4年後に認知機能が健常域に戻った人では、D体が再び減少し、キラルバランスが改善しているケースがあったのだ。

図5:D-プロリンの経年変化と認知機能の相関

  • 図5:D-プロリンの経年変化と認知機能の相関。キラルバランス=0.38(D体0.38%:L体99.62%)は、先の横断研究から見出された健常とMCIの境界値。
    (MMSE:認知症の疑いを判断するスクリーニング検査。30点満点で示され点が少ないほど認知機能の低下の疑いがある。)

「この結果からは、認知機能の回復評価や予後予測も可能であることが認められ、認知モニタリング技術としての有用性が示されました。D-アミノ酸は非常に微量でありながらも、私たちの健康バロメーターになることは大変興味深いと思います」(木村氏)

現在も花王で社会実装に向けて産官学民の連携を進めている。今後、臨床応用を見据えると、(冒頭のトリプル衝撃の2つ目)血液から約20分で迅速診断できることが最大の利点となっていくだろう。

分析化学の中でも難関中の難関であるキラルアミノ酸の分離。後編では「アミノ酸を種類別に分ける」と「種類ごとにD/L体を分ける」という2つのことを同時に可能にした技術的なブレイクスルーに迫る。


【後編】難攻不落のD-アミノ酸分析 発想の転換で突破口を開く


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<参考文献>

・哺乳類のD-アミノ酸について
https://seikagaku.jbsoc.or.jp/10.14952/SEIKAGAKU.2019.910329/data/index.html

Hashimoto, A.; Nishikawa, T.; Hayashi, T.; Fujii, N.; Harada, K.; Oka, T.; Takahashi, K. The presence of free D-serine in rat brain. FEBS Lett. 1992, 296, 33–36
https://febs.onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1016/0014-5793%2892%2980397-Y?sid=nlm%3Apubmed


・D-セリンと認知症の関りについて
https://www.keio.ac.jp/ja/press_release/2015/osa3qr000000t3b0-att/20150421_suzuki.pdf

Suzuki, M.; Sasabe, J.; Miyoshi, Y.; Kuwasako, K.; Muto, Y.; Hamase, K.; Matsuoka, M.; Imanishi, N.; Aiso, S. Glycolytic flux controls d-serine synthesis through glyceraldehyde-3-phosphate dehydrogenase in astrocytes PNAS 2015, 112 (17) E2217-E2224
https://www.pnas.org/content/pnas/112/17/E2217.full.pdf


・アミロイドβと認知症の検査について
「脳の神経細胞を壊していく老廃物「アミロイドβ」って何者?侵略から守る秘訣は"睡眠"だった」講談社ブルーバックス
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68402


・東京都健康長寿医療センターと共同調査について
http://square.umin.ac.jp/otassha/corporation/


・キラルバランスと認知症の関りについて
Kimura, R.; Tsujimura, H.; Tsuchiya, M. et al. Development of a cognitive function marker based on D-amino acid proportions using new chiral tandem LC-MS/MS systems. Sci Rep 2020, 10, 804.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-57878-y

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