イノベーションのDNA
【特集:バイオフィルム洗浄(口腔)】
私たちの生活の中には数々の〝難敵〟が存在する。なかなか落ちない衣類の皮脂汚れ、従来の洗顔料ではびくともしなかった角栓。ついに今度の難敵は、私たちの体内で生じる“複雑すぎる”汚れ、口の中の「バイオフィルム」だ。
バイオフィルムとはあまり聞きなれないが、一番よく見かけるのは排水溝の「ぬめり」。さまざまな菌※がそこにいるだけでなく、菌たちが出したネバネバの物質など、いろいろな物質が複雑に絡まり合ってできた「菌のオアシス」だ。よく耳にする「歯垢(プラーク)」は、口腔内の菌によって歯や歯肉の表面にできるバイオフィルムだが、それだけではない。入れ歯など口腔装着物の表面にもバイオフィルムは形成されてしまうのだ。
「バイオフィルムが分厚くなっていくと空気から遮断されやすくなり、菌にとって、ますます好都合な環境ができてしまいます。十分に成熟したバイオフィルムでは病原性のある菌の繁殖が報告されており(※1)、特に免疫機能が低下した高齢の人などにとっては、誤嚥性肺炎をはじめとする全身疾患のリスクとなるため、バイオフィルムを日々、取り除くことが大切です」と花王 パーソナルヘルスケア研究所の半田拓弥さんは話す。
だが正直、歯磨きに加えて、口腔装着物のケアまで毎日しっかりするのは、なかなか大変……。そんな生活者の気持ちにも寄り添って「新しい習慣」として定着することを目指し、開発された新技術は、目から鱗のユニークで斬新な洗浄方法だった。
※本記事中では細菌だけではなく真菌なども含め、口腔内微生物をまとめて「菌」と表現します。
<これまでの花王研究員の奮闘記「難敵」シリーズはこちら>
VS. 肌表面の皮脂汚れ:「汚れを味方に? 肌にやさしい“賢すぎる洗浄剤”の正体」
VS. 角栓:「毛穴詰まりに王手を! 難敵「角栓」を崩す華麗なる洗浄剤」
現代はどの世代の人でも、口腔装着物の着用はめずらしくない時代だ。入れ歯などの義歯だけでなく、ワイヤーや透明で見えにくいリテーナー(矯正治療後に使用する保定装置)など歯列矯正用の装着物、歯ぎしりとかや食いしばりを防ぐナイトガード、スポーツ用のマウスガードなど、さまざまな種類がある。子どもから大人まで、使用者にとってはどれも生活を豊かにするために欠かせないアイテムだ。
そこで、日々の口腔装着物のケアも必要となってくる。臭いやぬめりという不快感を軽減するために、清潔・衛生を保つことももちろんだが、健康リスクの軽減という意味でも口腔装着物の洗浄は重要だ。装着物にバイオフィルムが残っていると、隣接する歯の虫歯や歯茎の炎症などを招く可能性もある。
そもそも口腔環境が健常な人でも、口の中には虫歯の原因菌だけでなく、歯周病に関与する菌、口臭の原因となる菌など、さまざまな菌が生息している。さらに、歯の表面と口腔装着物の表面では主にどんな菌が存在するのかに違いがあることも知られている(※1)。
例えば、義歯の表面で成熟したバイオフィルムで見られる真菌のカンジダ属(細菌ではなくカビの仲間)は、気道内に侵入すると誤嚥性肺炎を引き起こす可能性がある(※2)。私たちの免疫機能が低下し、抵抗力が落ちたときに日和見感染を起こすもので、特に高齢者にとっては健康リスクとなる。高齢者ほど装着物の使用率も高いことを踏まえると、やはり軽視できない課題である。
「適切に口腔内の衛生を保つことができれば、入院している高齢者や介護施設の住人でも肺炎や気道内の感染のリスクを6.6~11.7%下げられるという報告もあります(※2)。だからこそ、菌の住処となるバイオフィルムを日々、きちんと取り除いていくことが大切なのですが、口腔装着物をつけたまま、歯磨きをするわけにもいきません。そこで口腔装着物に最適な新たな洗浄技術の開発を目指しました」と半田さん。
冒頭で述べたように、虫歯や歯周病の原因として知られる歯垢(プラーク)も、歯に付着した菌が繁殖したかたまりで、これもバイオフィルムの一つだ。でも、それに対して私たちには、歯磨き粉とブラッシングで洗い落とすという術がある。では、口腔装着物に対して有効な手段はなにか。
「これまでもブラシ等による除去や漬け置き型の洗浄剤はありましたが、お客様へのヒアリングなどから『なるべく手間を掛けたくないが、しっかり洗浄はしたい』といった声や『洗浄中の装着物を人目に晒したくない』といった声がありました。こうしたニーズに対し、新たな解決策を模索する中で、時間や手間のかからない習慣化しやすい方法でなければならない、ということが第一にありました。そこで、ブラッシングなどの物理力も不要で、誰でも簡単に実践でき、かつ、歯磨きをしている間に済ませられる『短時間の放置洗浄』というコンセプトに至りました」と半田さんは語る。
「彼を知り己を知れば百戦殆からず」。これまでも花王研究員のさまざまな〝難敵〟へのアプローチを紹介してきたが、必ずと言っていいほど共通しているのは、徹底的に敵について調べ上げた入念なリサーチがまず行われることだ。そこから新たな本質が発見され、〝敵の知られざる姿〟が明らかになることも珍しくない。
今回の難敵、口腔内のバイオフィルムに基盤研究の段階から挑んできたパーソナルヘルスケア研究所の園井厚憲さんは「バイオフィルムというものは、小宇宙(ミクロコスモス)と呼ばれるほど菌が複雑な生態系を構築し、そして複雑な構造をした汚れなのです」と言う。
バイオフィルムは菌そのもの(複数の種類であることが多い)と、菌が外に出している細胞外物質で形成されている。細胞外物質にも、多糖、タンパク質、DNA、さらに脂質や無機イオンなど、多種多様な物質が含まれている(※3)。そのうえ、この複雑な空間の中では「菌同士の助け合い」が行われていると園井さんは続ける。
「菌にとってはオアシスのような生活空間です。バイオフィルムがバリアとなって薬剤はその中へ届きにくくなりますし、菌同士で栄養分をやり取りしたりもしています」
なんとしたたかな生存戦略だろう。いったい、菌たちは私たちの知らぬ間にどうやってそんな根城を築いているのだろうか。園井さんは次のように話す。
「まず、菌は唾液中にあるタンパク質を足場にすることが知られています。唾液中には、食べかすに由来するもの、菌が出しているもの、そして人体から分泌されるタンパク質があります。歯や義歯などの表面にタンパク質の足場ができると、そこに菌が付着して、その場に留まりながら、先ほど申し上げた、さまざまな細胞外物質を分泌しながら増殖しはじめます。付着したバイオフィルムは成熟することで、菌にとって好都合な環境を作り上げていくのです(※1)」
ちょっと寄り道
「口の中に広がる小宇宙~ 知られざる口腔微生物の世界~」
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生命の発生から35億年。ヒトの体内には、我々とは別の進化を遂げた多種多様な微生物がいます。口腔微生物叢もその一つ。口腔内という限られた環境からも、進化の痕跡を辿ることができるのです。例えば、虫歯菌としてよく知られるミュータンス菌(S. mutans)は、約1万年前に人類が穀物を食べるようになった後に出現したと言われています(*1, 2)。
他にも口腔内では膨大な数の微生物が相互作用しながら棲息しています。「菌」と言っても、原核生物である細菌もいれば、ヒトと同じ真核生物である真菌(カビ、酵母、キノコの仲間)、そのどちらでもない古細菌もいます。地球上の全ての生物は、細菌(真正細菌)、古細菌、真核生物の3つのドメインのいずれかに分類されますが、ヒトの口腔にはこの全てのドメインの菌がいるのです(上図)。そして彼らは唾液や食物残渣などに含まれる高分子を、水や二酸化炭素、アンモニア、酢酸などの低分子に分解しながら増殖しています。
口腔内のトラブルを招く微生物も一様ではありません。細菌はグラム染色という染め分けにより「グラム陽性菌」と「グラム陰性菌」に分けられます。グラム陽性菌には外膜がありませんが、グラム陰性菌には細胞壁の外側に脂質二重膜の外膜が存在します。むし歯は、ミュータンス菌などのグラム陽性細菌が、糖類から酸を産生し、エナメル質を溶かすことによって、発症・進行します(*3)。一方で歯周病にはグラム陰性細菌が関連することが知られています。さらに歯周病患者の唾液からはこうした一般的な細菌だけでなく、リケッチア・クラミジア、マイコプラズマといった極めて小さな細菌が検出されることがあります(*4)。
細菌以外に目を向けると、義歯性口内炎やカンジダ症の原因は、真菌の一種のカンジダ(Candida)属とされています。また、歯周病が進展した深い歯周ポケットからは古細菌の一種Methanobrevibacter oralisが検出されることがあり、歯周病との関連性が疑われています(*5)。この他にも、ウイルスのように生物か非生物かよくわからないものや、歯肉アメーバーや口腔トリコモナスといった原虫が検出されることもあります(*4)。
口腔内の微生物として最もメジャーな存在である細菌についても、その実態は完全に解明されているわけではありません。口腔細菌の世界最大のデータベースであるeHOMD(*6)には、774種ものヒトの口腔から検出された細菌に関する情報が掲載されています。そのうち学名がつけられているのは58%。残る42%のうち16%の細菌は、培養はできるものの、いまだ学名がありません。26%の細菌は、リポソームDNAの塩基配列に基づく「系統型」として知られてはいますが、いまだ培養されたことがないため、その姿かたちさえ不明なままです。私たちの口の中にはまだまだ未知の世界が広がっているのです。
(*1)Cornejo, O.E.; Lefebure, T.; Pavinski Bitar, P.D.; Ping, L.; Richards, V.P.; Eilertson, K.; Do, T.; Beighton, D.; Zeng, L.; Ahn, S.; Burne, R.A.; Siepel, A.; Bustamante, C.D.; Stanhope, M.J. Evolutionary and Population Genomics of the Cavity Causing Bacteria Streptococcus mutans. Mol. Biol. Evol. 2012, 30(4), 881–893.
(*2)Gibbons A. How Sweet It Is: Genes Show How Bacteria Colonized Human Teeth. Science, 2013, 339(6122), 896-897.
(*3)福島久典「Mutans streptococciのう蝕誘発メカニズム」 歯科医学, 1998, 61(2), 115-120.
(*4)「歯学微生物学 第5版」(口腔細菌学談話会編), 医歯薬出版株式会社, 1992.
(*5)Huynh, Hong T.T.; Pignoly, M.; Nkamga, Vanessa D.; Drancourt, M.; Aboudharam, G. The Repertoire of Archaea Cultivated from Severe Periodontitis. PLoS ONE, 2015, 10(4), e0121565.
(*6)expanded Human Oral Microbiome Database, https://www.homd.org/
バイオフィルムの組成や形成メカニズムからすれば、まずタンパク質をターゲットにしようということになる。タンパク質の構造を壊す代表的な変性剤と言えば、生化学の実験ではおなじみのSDS(Sodium dodecylsulfate; ドデシル硫酸ナトリウム)という界面活性剤がある。
半田さんたちは、まずこのSDSを試してみた。しかし「ゲル化したバイオフィルムはタンパク質の洗浄力としては最強レベルの界面活性剤であるSDSでも分解が難しく、短時間での除去はできませんでした。他にもさまざまな界面活性剤を試してみましたが、なかなか短時間で、外力をかけずに分解するのは難しいということが分かってきました」と振り返る。やはりバイオフィルムは、かなりしぶとい相手だ。だが、ここで半田さんたちの中であるアイデアが閃く。
「ここまで壊れないのであれば、もはや、そのまま剥してしまえばいいと思ったのです。つまり、バイオフィルムの基板となっている装着物の表面と、バイオフィルムの間の境界(界面)に集中的に作用させればよいと考えました」
たしかに「丸ごと剥がす」ことができたら、なんて爽快だろう!でも具体的にどんな薬剤なら、丸剥がしが可能となるのか。半田さんの作戦はこうだ。
「剥離させるには、汚れ(バイオフィルム)と基板の間に水を侵入させること、つまり両面を濡らすことが重要です。そのために汚れと基板の両方の表面に対して同時に親和性が高いという観点で、もう一度初めから界面活性剤を探し直すこととしました」
結論を言ってしまうと、この発想の転換は見事に功を奏した。だが、放置時間「5分」の短時間洗浄は、一つの特効薬だけで叶えられたわけではなかった。半田さんはなぜそこまで5分以内の洗浄時間にこだわったのか。そして、どのように「5分の壁」を突破することができたのか。
後編では、菌たちが構築するミクロの世界を捉えた解析結果をヒントに、新技術の核となる物質にたどり着くまでの道のりを紹介する。
後編記事はこちら
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<参考文献>
歯科や矯正歯科に関する政府調査
平成28年歯科疾患実態調査 (厚生労働省) https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/62-28.html
令和2年 患者調査 (厚生労働省) https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/kanja/20/index.html
※1 口腔菌と口腔バイオフィルムについて
・Xime´nez-Fyvie, L.A.; Haffajee, A.D. ; Socransky, S.S. Comparison of the microbiota of supra- and subgingival plaque in health and periodontitis. J. Clin. Periodontol. 2000, 27, 648–657.
・Campos, M.S.; Marchini, L.; Bernardes, L.A.S.; Paulino, L.C.; Nobrega, F.G. Biofilm microbial communities of denture stomatitis. Oral Microbiol. Immunol. 2008, 23, 419–424.
・Socransky, S.S.; Haffajee, A.D. Dental biofilms: difficult therapeutic targets. Periodontology 2002, 28, 12–55.
・Huang, R.; Li, M.; Gregory, R.K. Bacterial interactions in dental biofilm. Virulence 2000, 2(5), 435-444.
・吉田 明弘「デンタルプラーク」 膜 2017, 42(2), 46-53.
※2 口腔菌誤嚥によるリスクについて
・Sjogren, P.; Nilsson, E.; Forsell, M.; Jonasson, O.; Hoogstraate, J. A systematic review of the preventive effect of oral hygiene on pneumonia and respiratory tract infection in elderly people in hospitals and nursing homes: Effect estimates and methodological quality of randomized controlled trials. J. Am. Geriatrics Soc. 2008, 56, 2124-2130.
・二川 浩樹, 牧平 清超, 江草 宏, 福島 整, 川端 涼子, 浜田 泰三, 矢谷 博文 「口腔カンジダの付着およびバイオフィルム形成」 日本医真菌学会雑誌 2005, 46(4) , 233-242.
※3 口腔バイオフィルムの組成や構造について
・Karygianni, L.; Ren, Z.; Koo, H.;Thurnheer, T. Biofilm Matrixome: Extracellular Components in Structured Microbial Communities. Trends in Microbiology 2020, 28(8), 668-681.
・Flemming, H.C. ;Wingender, J. The biofilm matrix. Nature Reviews Microbiology 2010, 8, 623-633.
・Pinto, R.M.; Soares,F.A. ; Reis, S.; Cláudia Nunes, C.; Van Dijck, P.Innovative Strategies Toward the Disassembly of the EPS Matrix in Bacterial Biofilms. Frontiers in Microbiology. 2020, 11, Article 952.