イノベーションのDNA
【特集:バイオフィルム洗浄(口腔)】
「口腔装着物」という言葉を聞いたことがありますか──?
口の中に装着する人工物……そう説明されてもまだ、「入れ歯」くらいしか思い浮かばないという方も多いかもしれません。
けれども、オーラルケアを取り巻く「器具」の世界は、人知れず大きな変化を遂げているのです。
歯列矯正用の透明なアライナー、歯ぎしり・食いしばり防止用のナイトガード、はたまたスポーツ用のマウスピース……。こうして利用者の年代や、利用する目的がさまざまな広がりを見せる一方で、あらためて浮上するのが、それらの器具の「お手入れ」の仕方です。
実は、どんな人でも、口の中には多種多様な菌が生息しているもの。そうした菌たちは、歯だけでなく人口の装着物の表面に「バイオフィルム」という膜を作ってしまうのです。
この難敵を手間なく簡便に取り除き、歯科医師たちを「目からウロコ」と驚かせたのが、花王パーソナルヘルスケア研究所の半田拓弥さんたちの研究チームでした。
常識破りの発想は、どこから生まれたのか。その秘密を語ってもらいました!
まず、今回の研究で素材探索から製剤開発までの全体を担当した半田さんにおうかがいします。
分解が難しいバイオフィルムの簡便で迅速な洗浄という課題を、発想の転換で乗り越えたそうですが、どんなところが新しかったのでしょうか?
半田: 今回の開発では、大きくふたつの発想転換がありました。
通常、汚れの塊を洗浄する場合には、細かく分解するのが基本です。しかし、義歯表面にできたバイオフィルムは、界面活性剤ではどうしても分解できませんでした。そこで、あえて塊のままでベロッとまとめて剥がしてしまう作戦に切り替えたところ、予想以上に上手くいったんですね。
ところが、オーラルケア技術で通常使う素材の範囲では、どう処方を工夫しても処理時間が10分かかってしまいます。この「時間の壁」は結局、様々な分野で花王が蓄積してきた洗浄技術や素材にまで検討を拡げて、その中から格好のアシスト剤を見つけることで解決できました。これが発想の転換の二つ目です。
実は、わたしは元々、和歌山県にあるハウスホールド研究所で、衣料用洗剤の開発に取り組んでいたんです。そうした背景があったので、「ひょっとして、他の洗浄分野で使っている素材の中に、バイオフィルムの剥離を加速させるものがあるんじゃないか?」と考えることができたのだと思います。
ともかく、その発想に至ったら善は急げということで、すぐに会社の裏にあるホームセンターに行きまして。
ホームセンター、ですか!?
半田: はい、歩いて数分で一番早く手に入れられますから。花王のいろいろな分野、種類の洗浄剤を山ほど買い込んで、ただちに実験に取り組んだんです。すると、短時間で洗浄効果を発揮するものが、ふたつだけ見つかりました。そこで、それらに共通している成分は何か洗いだしたんです。
過去の経験から、幅広い洗浄剤を試したことで新しい可能性が開けたのですね。
半田: そうですね。しかしまだ、5分間で剥離するための必要最小限の条件を見つけただけで、そこから製剤化までには、まだまだ別の大きな苦労があります。その期間を比較的短くできたのは、チームメンバーとの連携のたまものでした。わたしたちは入社以来の経歴は様々ですが、実は入社時期がほぼ同じで、しかも全員同じ和歌山に配属されたんです。私と園井さんはその後、すみだに異動しましたが、原さんが和歌山にとどまって解析に取り組んでくれていたのには本当に助けられましたね。
原さんは「解析のプロ」でいらっしゃって、今回の研究では、とくに「バイオフィルムがどうやって剥がれていくのか」を解明されたとうかがいました。
原: 見出した成分でバイオフィルムを除去できた理由は、冒頭でも紹介しましたように、細かく分解していくのではなく、まとめてベロッと剥がしてしまうという点にあったんですね。「どういう原理でそんなことが起きるのか?」と、「上手くいったのだからもういいじゃないか」ではなく、本質まで突き詰めることによって、見つけたことが偶然ではなく必然であると確かめていく。そしてもっと大きなブレイクスルーや広い展開につなげるのが、私たち解析科学研の役割なのです。
実際、どのようにして剥離が起こっていたのですか?
in-situ 3次元観察技術(in-situとはラテン語で「その位置において」という意味。試料破壊を伴わない「その場観察」技術とも呼ぶ)で注意深く観察を行うと、剥離はバイオフィルムの縁からだけではなく、その中央の辺りまでいたるところで同時多発的に起こっていました。これが短い時間で剥離を達成する上での基本になったと考えられます。
短くする、というと、具体的にはどれくらいの時間を目指していたんですか?
原: チームで想定していた目標時間は、5分でした。しかし、10分の壁がなかなか越えられません。この5分のギャップを埋めるべく、いろいろと試行錯誤を続けていったんです。
5分で洗浄が終われば、本当に便利ですね!……とはいえ、なぜ10分ではダメで、5分だったのでしょう?この疑問には、3人の中で一番古くからバイオフィルムに取り組みつつ、生活者の声にも耳を傾けてきた園井厚憲さんが答えてくれました。
園井: 実は、「短時間洗浄」というコンセプトは、かなり前から議論されてきたものだったんです。
そのひとつのきっかけは、東日本大震災だったと聞いています。あわただしい避難生活の中、避難所で入れ歯をなくしてしまったとか、扱いに困ったという方がかなりいらっしゃったようなんですね。
「なくしたくないから、寝るときですら枕元に置いておきたい」「外している時間を短くしたい」という声があるわけです。寝る時には入れ歯は外しておかなければなりませんが、このような声を気付きにして、避難所だけでなく普段の生活でも、お出かけ前や歯磨きの間にササっとこまめに洗浄したい場面があるのではないか?と、目標として「5分で洗浄完了」を掲げて開発を進めたんです。
研究グループのみなさんの経験や、実際に困りごとがあったという利用者の問題を解決しようとする熱意が、開発の後押しになったのですね。
半田: そうですね。ただ、研究開発の現場では、そうそうすべての研究がうまくゴールにこぎつけられるわけでもないんです。
技術の基本条件が見つかったとしても、製剤として完成させるまでには、安定性や安全性などのリアルな課題をすべてクリアしなければなりません。今回は、そうした意味でもチーム内外の多くの方々に助けていただいて本当に幸運だったと思います。また、壁を超えられずに挫折してしまった過去の研究資産のおかげで乗り越えられた部分も大きかったですね。
成功のカゲには、日の目を見なかった研究たちが眠っている……!?
半田: はい。けれども、ゴールまで届かなくても、決して無意味ではありません。「倉庫にしまわれた」研究を復活させることもよくあります。完成に至らなかったからといって、「ダメだった」と切り捨てないところは、研究開発の世界ならではと言えるでしょうか。
研究職には研究職ならではの面白味ややりがいがある、と感じていらっしゃる?
半田: そうですね。日々の研究の中でも、「どうなったら面白いか」という視点は常に持つようにしています。今回もホームセンターに行こうと思い立ったときには、「もしハウスホールド品で効果のあるものがあったら面白くない?」と考えていた部分もあります。
買ってきた自社の洗浄剤を片っ端から評価していく中で、バイオフィルムがごっそり剝がれているものを見つけたときには、「やった!」と喜びで手が震えたのを覚えています。
「研究者」というと、冷徹な表情で試料を見つめているようなイメージがありますが、お話をうかがうと、かなりエモーショナルですね(笑)。
半田: そうですね。まったく異なるカテゴリーから素材を見つけたブレイクスルーの瞬間には、「だから研究開発は面白い!」という気持ちが高まりましたね。
もちろん、研究においてはデータと考察をきちんと積み上げることが大事です。ただ、そういう積み重ねの中で、ふと、発想が飛躍する「ひらめき」体験があったりもして、それがブレイクスルーにつながることもあるんですね。
実は、わたしは、そういう「物事を面白がる」気持ちのゆとりを保つために、あえて「何もしない時間」を作るようにしています。仕事に追われて疲れてくると、そういった前向きな気持ちが湧いてこなくなってしまう、ということもあるように思いまして。
もちろん、ひとによって様々な方法論があるとは思いますが、わたしの場合、あえて何もせず、ボーッとしてみることで、ふいに、やりたいことや研究のアイディアが浮かんできたりします。ですので、そういう時間を大切にしたいなと思っていますね。
なるほど……ただ、それって上司の方に怒られたりはしないものなんですか……?
園井: 程度問題かもしれませんが、大丈夫ですよ(笑)。花王では、研究を行う上での制約が少なく、比較的自由に研究ができると感じています。
実際、研究にはいろいろな切り口があるものです。たとえば、いい素材が見つかったからといって、そこで終わりというわけではなく、原さんが言っていたように、なぜその機能が発現するのか、メカニズムを掘り下げることでもっといいものを発見できたりします。
そうした「本質研究」に加えて、花王では研究者自身が生活者の声、体験などをベースに、技術・商品のアイデアを上司・事業部に提案することも活発に行われています。研究者というと、研究結果の活用を全面に押し出した、いわゆる「プロダクトアウト」型の思考をしていると思われるかもしれません。それはもちろん技術進化の大切な原動力ですが、花王の研究者はそれだけではない、というのが働いていて面白いところですね。
お仕事として「研究」をされているみなさんが、想像以上に自由に、「面白さ」を大切に日々の研究に取り組んでいらっしゃることが伝わってきます。
最後に、将来、企業で研究職についてみようかと考えている学生や若いみなさんへ進学・キャリアパスを考えるうえでのアドバイスがあればお願いします!
半田: わたしは大学時代、「生物化学工学」という学問を専攻にしていたんですが、そのきっかけは、受験生の頃に通っていた個人塾の先生が、大学で「生物物理化学」を専攻している、と聞いたことでした。「生物」「物理」「化学」……!?と、3教科を合わせたような専攻名にも衝撃を受けましたが、「生命現象を物理化学の言葉で理解する」ということを面白く話してくれたことで、興味がかきたてられましたね。
学部選びのアドバイスになるかどうかわかりませんが、個人的には「あとで就職のときに困らないか」は、進学の際には、あまり考えなくていいんじゃないかと思っています。
たしかに、希望の企業や職種が決まっているなら、それと相性のいい学部を狙って選んだほうが「コスパがいい」と言えなくはないでしょう。
しかしたとえば、わたし自身は生物系の専攻だったところから、化学を軸にしている花王に入っています。もちろん、入社後しばらくは、大学時代から界面化学や有機化学を専攻していた周囲のひとたちとのギャップに苦しんだ部分はありました。けれども逆に、自分にはそういう研究者たちが通ってこなかった道の経験があった。それが巡りめぐって、今回の記事で取り上げていただいた技術の開発にもつながっています。
原: たしかに、社会に出てから、あらためて自分の学友を見回してみると、必ずしもみんなが理系の仕事についているわけではないことに気づきますよね。理系就職をしていても、化学専攻だったのに生物関連の仕事をしていたりと、畑違いの分野で仕事をしている友人もいます。理系でも文系でも、”好き“で「楽しく仕事ができる」と思ってそちらに進むも良し、“得意”で「力を発揮して世の役に立てる」と思ってその道を進むも良しだと思います。
半田: ええ、ですから、学生のみなさんには、将来の仕事に有利か不利かはあまり気にせず、興味のある分野や、気になる大学のオープンキャンパスに行ってみて、とにかく「面白そうだ」と思ったことを大切にしていってはどうでしょうか、と提案したいですね。そうやって学んだことが、結局は将来、「仕事としての研究する」という立場になったときにも活きてくるのだと思います。
園井: わたしの場合、理系進学のきっかけというのは、小さい頃に、かの有名な「青いネコ型ロボット」のアニメが好きだったということでして(笑)。ああいう、ワクワクする「ひみつ道具」を作りたいと心に決めていたことを覚えています。
ただ、高校に入った頃には、地理や政治経済といった社会系の科目のほうが得意だったんですね。それでも、「新しい技術で世の中に貢献したい」という夢を追いかけて、結局、理系を選びました。
そんな調子で、「将来の夢はなに?」と聞かれれば「研究者」と答えていたんですが、実はどの分野の研究者なのかという点については、あまり明確なイメージがなかったんですね。
化学の面白さに気づいたのは、予備校生になってからのことだったんですが、未知の世界に触れたり、それまであまり会ったことがないタイプの人と話すことで、価値観も変わるし、新たな将来像も描けるようになると思っています。それは、何も受験生、学生のときのことだけの話ではなくて、人間、何かのきっかけで価値観や、やりたいことが変わるということはありますよね。大人になってみると、人生、途中で変更がきかないなんてことは、実はないんだとわかってくるようにも思います。
学生のみなさんに経験者からのメッセージを送るとしたら、「世の中は自分が思っていたより、はるかに広かった」ということでしょうか。「好き」を大事にして、就職までにいろんな経験を積んでおくことのほうが、机上の将来像から逆算して進学先を難しく考えるよりも大事なんじゃないかと思います。
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