イノベーションのDNA
【特集:泡】
「できっこない」を覆す研究員の底力(前編)
「泡で汚れは落とせない」「泡は洗浄剤の演出でしかない」
界面活性剤の世界ではこれが長年の常識だった。
この常識が覆されたのは、わずか2年前のことだった──。
「泡で洗う」ことは、私たちの日常にすっかり定着している。だが、一昔前を思い返せば、それが決して当たり前ではなかったことに気づく。洗浄に付随する“泡”そのものに価値を見出していた人がどれほどいただろうか。
だが今では「フワフワな泡」「クリーミーな泡」「長持ちする泡」と形容詞が並ぶほど、泡にはバリエーションがある。その裏には、洗剤、洗顔料、シャンプー、ボディソープなど、さまざまな用途に合わせて泡をデザインし、形にしてきた研究員の奮闘があった。
そして理想の泡を追い求めた研究員の挑戦が、ついには科学の常識を塗り替える新事実を見出していたのだ。
約30年にわたり界面化学の研究をリードしてきた花王主席研究員の坂井隆也氏。
インタビューで開口一番、放たれた衝撃のフレーズがこれだった。
「洗浄力でいえば、弊社の製品で一番強力なのは衣類用洗剤です。でもボディソープのように泡立って洗濯機の中が泡まみれにはならないですよね」
そう言われると、たしかに……。ではいったいどういうことなのか。まず「泡と洗浄力は直接関係ない」理由をごく簡単に説明しておきたい(化学に詳しい方には、おなじみの話だが少しだけお付き合いいただきたい)。
洗剤の主成分である界面活性剤は、1つの分子に水になじむ「親水基」の部分と、油になじむ「親油基」の部分、この両方を持っている。皮脂などの油汚れを落とす基本的なメカニズム(ローリングアップ現象)も、この親水基と親油基のはたらきによるもの。水と油のように本来混じり合うことのない物質の境界面(界面)に吸着し、橋渡しの役目を果たすことで、以下のような洗浄作用を発揮している。
1. 汚れを落ちやすくする
たとえばセーターを水に浸しても水はすぐにしみこまない。これは水の分子同士が引き合う界面張力がはたらいているため。界面活性剤はこの張力を低下させることで、対象物を水になじみやすくし、汚れをはがしやすくする(浸透湿潤作用)。
2. 汚れを引き離す
界面活性剤の分子が親油基側で汚れを取り囲むと、汚れの外側は親水基で覆われる。これにより、汚れは水のほうへと引っぱられて脱離する(乳化・可溶化作用)。
3. 汚れ戻りを防ぐ
界面活性剤の分子に取り囲まれた繊維や汚れの表面に反発力が生まれることで、お互いを遠ざける。水中に分散した汚れが再び付着するのを防ぐ。
要するに、洗浄作用は界面活性剤そのものがもつ力で起こっており、泡とは直接関係ない、というのが定説だ。では泡はただの「おまけ」だったのか……?
実はこの先に、大どんでん返しが待ち受けている。
「泡は洗浄作用に直接関係なくても、洗浄時の使用感を演出する重要なツールです。体を洗ったり、洗顔したりするときの心地よさ、洗浄実感、肌への安心感には欠かせない存在なのです」と坂井氏。
洗浄力とは切り分けた視点ではあったが「泡」に対しては様々なニーズがあった。その1つが「泡立ち」だ。坂井氏が若手の頃、上司から与えられたのは「泡立ちを良くする界面活性剤を設計せよ」というミッションだった。
A先輩 「ひたすら分子を合成して試すしかないな……」
坂井氏 「先輩、それって“設計”って言わないんじゃ……」
ひたすら処方(料理でいうレシピ)を試し、ノウハウで勝負していた当時。大学で有機合成をしていた坂井氏は、原理から攻める必要があると考え、独自で研究を始めた。最初はなかなか周囲に相手にされなかったが、次第に高確率で泡立つ界面活性剤を提案できるようになると流れが変わった。「昔は何十もの分子を試して1個でも当たればいいと言われましたが、今は10個あれば9個は思い通りの泡ができますね」と坂井氏は胸を張る。
だが「泡をつくる」のはそう簡単ではない。水と油のように、水と空気も本来混ざり合うものではないため、何もしなければ水中の空気は浮力で水面に達し、あっという間に割れてしまう。
そもそも泡とは何者なのか。気泡、すなわちバブル(bubble)とは「液体によって気体が閉じ込められた状態」を指す。シャボン玉がまさにそれだ。つまり、バブルを形成するには、空気を水の中に留める必要がある。
界面活性剤が油汚れを引き離す際、親油基が内側に入り、親水基が外側を向いて並ぶことは前述の通りだが、今度は親油基で囲まれたポケットに空気をおさめることになる。そのためには、泡の外側に存在する水と、泡の内側に存在する空気、それぞれとの境界面において、界面活性剤の分子が一様に存在する必要がある。
(※つまり、油汚れが多いと、界面活性剤の分子が汚れの取り囲みに費やされ、泡立ちは悪くなってしまう:後述 “大どんでん返し”の布石として補足)
そこで坂井氏は「いかに早く、界面活性剤の分子が水面上に並べるか」に照準を絞った。すぐに水から出ようとする空気を素早く界面活性剤で取り囲むためだ。つまり、泡立ちやすい界面活性剤はスピード勝負。次から次へと浮上する空気を逃さず捕獲するには、水溶液中に溶けた界面活性剤の分子が1000分の1秒レベルの速さで、水と空気の境界面へと移動しなければならない。坂井氏はこの速度を実験的に計測した。
そして、人毛の束が固定された「シャンプー泡立ち評価装置」(ヘアケア研究所が開発)を使って、泡立ちを体積として定量的に測定し、検証を行った。
花王 【特集 泡】 シャンプー泡立ち評価装置
こうしたアプローチが認められ、坂井氏は泡の研究を本格的に進めることとなった。「泡立ち」の次は、その泡をいかに維持するか、「泡持ち」への挑戦だ。
ここで唐突だが、皆さんが想像する「強風に負けない木」は、どんな木だろうか。川辺で揺れる柳のように「しなやかで折れにくい木」。巨大な杉のように「太くて丈夫な木」。多くの人がこのどちらかを思い浮かべるのではないだろうか。
「長持ちする泡」にも大きく2つのアプローチがある。軽い触感の “フワフワな泡”と、モチモチ触感の“クリーミーな泡”だ。この「泡質」の違いが、どのように泡持ちの向上につながったのか。
ひとつめの“フワフワな泡”はしなやかで破れにくい。その秘訣は、界面活性剤の組み合わせ方にある。
このグラフでは、性質の違う界面活性剤AとB、そしてAとBの混合剤で、泡が消えるまでの時間(泡膜寿命/分)を計測した結果を示している。A単独では10分、B単独では5分で泡は消える。しかし、驚くべきはAとBを8:2で混合すると、なんと180分も泡が持つようになるのだ。
実はAは負の電荷を持ったアニオン性の界面活性剤、Bは正と負の電荷を持った両性の界面活性剤。界面活性剤の分子間にはたらく静電引力をうまくコントロールすることで、ここまで泡持ちを変化させることができるのだ。
昔から、泡の膜には自発的に修復する力がはたらくことが知られている。その1つがバネのように伸び縮みする弾性力で、これが静電的な相互作用に支えられている。シャボン玉も割れない間は虹の模様がゆらゆらと動いて見えるが、これは膜全体が伸縮しているため。亀裂が入らないように液面に並ぶ分子が間隔調整をしてくれると、しなやかで破れない泡を維持できるのだ。
しかし、修復力がはたらくとはいえ、重力の影響下では、泡の上から下に膜内の水が移動し、その重みに耐えきれず、薄くなった膜のてっぺんがいずれは破ける。
そこで次に注目したのが“クリーミーな泡”だ。研究メンバーが子どもとお風呂に入った際、手で泡を作って遊んでいると、フワフアな泡は膜が絶えず流動していたのに対して、クリーミーな泡は液面が動かず、静止しているように見えるというのだ。
この話を聞いて坂井氏はひらめいた。「つまり、クリーミーな泡の中では、重力があるにもかかわらず、水の移動が抑えられている……これだ!」
先程のフワフワな泡では界面活性剤の分子をうまく動かすことで、膜の修復力を高めていたのに対して、このクリーミーな泡では、逆に分子の運動性を下げ、膜に厚みが生まれるように設計することで「剛性膜」を実現した。
こうして生み出された「長持ちする泡」は、例えばヘアカラー剤に応用されている。筆者も学生の頃は、したたる液に悪戦苦闘しながら自宅で毛染めをしていた思い出があり、現在のヘアカラーの泡に恩恵を感じている一人だ。
花王 【特集 泡】 長持ち泡
さて、「泡立ち」も良くなって「泡持ち」も長くなって文句なし……と言いたいところだが、まだ難題は残されていた。泡立ちが良いものは決まって「泡切れ」が悪い。お皿を洗い流すのに時間がかかったり、体を洗った後にいつまでもぬるぬるしたりする、あの不快感だ。
これについても坂井氏のグループは、泡の大きさ、泡膜の厚み、膜上の分子の動きなど、泡の特性を総合的にコントロールすることで、洗浄中は「泡立ち」がよく、すすぎの際には「泡切れ」するという、従来はトレードオフと考えられていた両立を実現した。
花王 【特集 泡】 泡立ちも泡切れもいい
こうして坂井氏が率いる研究グループは、ロジックとノウハウを対応させながら知見を蓄積し、「泡立ち」「泡持ち」「泡質」「泡切れ」の4軸で泡の制御技術を確立した。
だが、しょせん泡は洗浄実感につながる“演出”でしかないのではなかったか。ここでついに「泡は洗浄と直接関係ない」という定説を覆した“大どんでん返し”の結末が明らかになる。
坂井氏と協同中のスキンケア研メンバーが2012年に発見したのは「泡が油を吸い込む」という、一見信じがたい顕微鏡下の光景だった。「泡立ち」の話で補足(※)したように、油汚れがあると、ふつう泡は壊れる。それが、壊れるどころか自発的に油を吸引するというのだ。さぞかし特殊な薬品でも使用したのかと思いきや、既存の界面活性剤(脂肪酸石けん水溶液)で、というから驚きだ。では何を入れたのかというと、答えは「空気」だ。
下の動画では、まさに泡が油を吸い込む様子がご覧いただける。
花王 【特集 泡】 油を吸う泡
つまり、よーく泡立てただけで、泡が汚れを吸ってくれる? いったいなぜ。ここでもやはり坂井氏らが着目したのは泡の「形状」だった。よく泡立てるほど、空気がたくさん入り、きめ細い泡になる。さらに泡立て、空気の含有量(気相率)が84%※を超えてくると、泡の形が丸から多角形に変化する。泡同士のおしくらまんじゅうだ。
※ 狭い隙間(二次元系)に泡を挟んだ場合には84%、三次元の泡では74%を境界にして泡の形が多角形に変化する。
すると、泡には球形に戻ろうとする物理的な力がはたらく。ぎゅうぎゅうの満員電車では他人の動きに巻き込まれそうになるが、油も強引に戻ろうとする泡に引きずり込まれるというわけだ。
坂井氏らが2017年に理論と実験データを突き合わせてこの原理を証明した際には、同業の専門家から「目から鱗が落ちた」と驚かれ、「毛細管現象ではない」と何度も説明しなければならなかったほど、簡単には信じてもらえなかったという。それほどインパクトのある報告だったのだ。
「泡で洗浄力を高められる」というこの大発見を武器に、坂井氏は皮膚洗浄における永遠の課題──「洗浄力と肌への優しさの両立;不要な油は落としたい、でも大事な脂は残したい」という難題に挑んだ。
つつぎは<後編>へ。
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<参考文献一覧>
・シャンプー起泡力と定量試験法について
Takaya, S.; Kaneko, Y. The Effect of Some Foam Boosters on the Foamability and Foam Stability of Anionic Systems. J. Surf. Deterg. 2004, 7, 291-295.
・増泡ブースターについて
坂井隆也「混合界面活性剤系における脂肪酸N-メチルエタノールアミドの増泡性能と界面物性」フレグランスジャーナル臨時増刊 2005, 19, 117-1024.
坂井隆也「泡のエンジニアリング」(石井淑夫、田村隆光、塚田隆夫、辻井薫編集), テクノシステム: 東京, 2005, pp.487-498.
・“バキューム泡”が油を吸うメカニズムについて
Sonoda, J.; Sakai, T.; Inomata, Y. Liquid Oil That Flows in Spaces of Aqueous Foam without Defoaming. J. Phys. Chem. B 2014, 118, 9438 – 9444
Kusaka, S.; Sonoda, J.; Tajima, H.; Sakai, T. Dynamics of Liquid Oil that Flows Inside Aqueous Wet Foam. J. Phys. Chem. B 2018, 122, 9786 – 9791
・“バキューム泡”での界面活性剤収着量について
Sonoda, J.; Sakai T.; Inoue, Y.; Inomata, Y. Skin Penetration of Fatty Acids from Soap Surfactants in Cleansers Dependent on Foam Bubble Size. J. Surfact. Deterg. 2014, 17, 59-65.
・「泡と洗浄性の関係」の代表的な教科書
翻訳「応用界面・コロイド化学ハンドブック」(監訳代表 辻井薫), NTS:東京, 2006, pp.69-70.
Ashley J. W. Foams-Theory, Measurements, and Applications (Eds. Robert K. Prud’home and Saad A Khan), Marcel Dekker; New York, 1996. pp243-272.
Kuo-Yann L. and Nagraj D. 同書, 1996. pp315-338.