イノベーションストーリーズ
洗剤から化粧品までさまざまなヒットを飛ばし続け、昨年11月には革新的な5つの技術イノベーションを発表した花王。
原動力となっているのは、技術の力で生活をもっと便利に、もっと豊かにしたいと願う、現場の研究者たちの熱い思いだった。
ものづくり国家として成功してきた日本では、「プロダクトアウト型」の商品開発が主流を占めてきた。
だが、その発想で世界をリードできなくなると、多くの企業がマーケティングに頼るようになった。
とはいえ、iPhoneのように消費者の一歩先を行き、ライフスタイルに影響を与えるような商品は、
マーケティング調査からは生まれてきづらい。
では、どうしたら「ニーズの一歩先」を創出できるのか?
洗剤やシャンプーといった日用品の開発で人々の暮らしを革新してきたのが、日本を代表する消費財メーカーの花王だ。
その核心を取材していくと、「マトリックス運営」という言葉に突き当たる。
花王は、私たちの生活に数々のイノベーションをもたらしてきた。
たとえば、日本の住宅にフローリング床が爆発的に普及した頃に発売され、今や掃除用具の代名詞にもなった「クイックルワイパー」。
粉末が主流だった入浴剤を固形にし、炭酸ガスを用いて短時間で高い入浴効果が得られるようにした「バブ」……。
ライフスタイルの変化に伴うニーズを敏感に察知し、生活の中に「手軽」「便利」「快適」を提供してきた。
家事に与えた影響がひときわ大きかったものの一つに、洗濯洗剤がある。
1987年発売の「アタック」はスプーン1杯で洗い上げる設計で、大箱入りが普通だった洗剤の小型化に成功。
今年4月には、「バイオIOS」「AC-HEC (エーシーヘック)」という新技術投入により再び洗濯革命を起こし、
さらに高い洗浄力と洗濯時間の短縮、環境配慮を実現した。
こうした革新を生み出す原動力となっているのが、研究開発部門だ。
花王の研究開発部門は、一般に基礎研究と称される「基盤技術研究」と、技術を実用化する「商品開発研究」とに分けられるが、
同社を特長づけているのは、その二部門が交差しつつ研究を推進する「マトリックス運営」にある。
部門を超えてさまざまな知が交わることでシナジーが生まれ、研究開発もスピードアップするのだ。
研究所の「大部屋制」は、そんなマトリックス型組織を象徴している。
文字通り壁のない大部屋で、専門領域や担当分野の異なる研究員が肩を並べ、
オープンに対話をしながら日々の研究を進めている。
この柔軟な組織運営の大前提になっているのが、現場の自主性を重んじる風土である。
社会のニーズに真摯に向き合い、自ら課題を見つけ、解決する方策を考えようとする。
こうした姿勢は1887年の創業以来、花王の伝統として脈々と受け継がれてきたものだ。
同社で30年にわたり研究開発に従事してきた代表取締役の長谷部佳宏は言う。
「現社長の澤田道隆はその典型です。研究職ながら事業部の上層部にプレゼンして事業を企画したり、
工場にかけ合って生産プロセスを改良し、目標を達成したこともあった。
ある意味やりすぎなのですが、結果として数字にも事業にも販売にも強くなれる。
彼のようにテリトリズムのないところが、花王の原点だと思います」
マテリアルサイエンス研究所(以下MS研)の若手研究員である齋藤隆儀(たかのり)も、
そんな花王の文化を実感している一人だ。
「『サイエンスの前では皆、平等だ』という上司の言葉は、今も心に刻まれています」
いわく、若手でもベテランでも、チャレンジの機会は同等にあるという。
同じくMS研の伊森洋一郎も「MS研では8割は現業、残り2割は何でも好きなことに挑戦してよい決まりかがある」と明かす。
その2割を使って、伊森と齋藤が始めたのがAC-HECの開発だった。
4月に発売された衣料用洗剤「アタックゼロ」にも投入されたAC-HECは、
セルロースを用いて繊維に汚れをつきにくくし、落としやすくするという世界初の洗浄技術だ。
だが、こうしたチャレンジがなぜイノベーションに昇華したのだろうか?
齋藤自身の経験が、その答えを物語っている。花王ではマトリックス運営の一環で、
組織を縦横にまたぐ大胆な人事異動が珍しくない。
そこで起こる異文化の融合が、新たな視点を生み出すことにつながるのだ。
「ヘアケア分野出身の僕にとって、シャンプーは汚れを落とすだけでなく、さらにきれいになるためのダメージケア。
ところが洗濯分野では“洗う”概念が違う。
ヘアケア起点の発想と、MS研での考え方を融合させたからこそAC-HECを生み出せたのだと思います。
そうでなければ、汚れを“落とす”ことばかり考えていたでしょうね」
美容・医療界への応用が期待される人造皮膚「Fine Fiber(ファインファイバー)」の生みの親で、
加工・プロセス開発研究所に在籍する東城武彦はこう語る。
「マーケティングも重要だけれど、技術あっての両輪だと先輩から聞かされてきました。
真の技術が宿っていない製品は、仮に何かの拍子に売れたとしても、すぐに消えていってしまうものなのです」
一方、商品開発の観点からFine Fiberの研究に取り組んだスキンケア研究所の長澤英広も
「商品開発研究だけで技術イノベーションは起こせないし、
基盤研究だけでも『つくったはいいけれど、どうやって使えばいいのか?』となる」と話す。
だが、物性の解析チーム、安全性の検証チーム、さらには容器のスペシャリストなど、
さまざまな専門分野のメンバーが知恵を出し合い、改良を重ねるうちに、商品化への道が見えてくるという。
「メンバー一人ひとりが、この技術を応用した商品で人々の生活に貢献したいという強い思いを持っていなければ、
とてもたどり着けなかったと思います」(長澤)
自らが開発する技術の価値を信じ、地道な実験を積み重ね、新たな発見から解決策を見出そうという執念。
それを世の中に役立てたいと願う熱意こそが、花王のイノベーションの正体なのかもしれない。
文=三井三奈子 写真=大中 啓、吉澤健太
「Forbes JAPAN web」2019.5.31 配信記事より転載